行かなくっちゃいけないよと命令的に注意するんだから、容易じゃない。その上よく観て、何でも気がついた事があるなら、そう云いなさいと、あたかも余を視察家扱にするんだからなおさら痛み入る。余は手に持った表に一通り眼を通しながら、傍《そば》にいる股野に、おい少し出て見るかなと云った。股野は固《もと》より余を連れて、大連中ぐるぐる引き廻す気で来ている。もっとも別段社からつけてくれたという訳じゃないんだが、本人の特志で社の用事をすっぽかす了見《りょうけん》らしい。そうしていつの間にか、ホテルへ馬車を云いつけている。
余は股野と相乗りで立派な馬車を走らして北公園に行った。と云うと大層だが、車の輪が五六度回転すると、もう公園で、公園に這入《はい》ったかと思うと、もう突き抜けてしまった。それから社員倶楽部と云うのに連れて行かれて、謡《うたい》の先生の月給が百五十円だと云う事を聞いて、また馬車へ乗って、今度は川崎造船所の須田君の所の工場を外から覗《のぞ》き込んで、すぐ隣の事務所に這入って、須田君に昨日《きのう》の御礼を述べた。事務所の前がすぐ海で、船渠《ドック》の中が蒼《あお》く澄んでいる。あれで何噸《なんトン》ぐらいの船が這入りますかと聞いたら、三千噸ぐらいまでは入れる事ができますという須田君の答であった。船渠の入口は四十二尺だとか云った。余は高い日がまともに水の中に差し込んで、動きたがる波を、じっと締めつけているように静かな船渠の中を、窓から見下《みおろ》しながら、夏の盛りに、この大きな石で畳んだ風呂へ這入って泳ぎ回ったらさぞ結構だろうと思った。
今度はどこだと股野に聞いて見ると、今度は電気の工場へ行きましょうという事である。鉄嶺丸《てつれいまる》が大連の港へ這入ったときまず第一に余の眼に、高く赤く真直《まっすぐ》に映じたものはこの工場の煙突であった。船のものはあれが東洋第一の煙突だと云っていた。なるほど東洋第一の煙突を持っているだけに、中へ這入ると、凄《すさま》じいものである。その一部分では、天井《てんじょう》を突き抜いて、青空が見えるようにして、四方の壁を高く積み上げていた。屋根の高さを増す必要があっての事だろうが、青空が煉瓦《れんが》の上に遠く見えるばかりか、尋常の会話はとうてい聞えないくらいに、恐ろしい音が響いている中に、塵《ちり》を浴びて立った時は、妙な心持がした。ある所は足の下も掘り下げて、暗い所にさまざまの仕掛《しかけ》が猛烈に活動していた。工業世界にも、文学者の頭以上に崇高なものがあるなと感心して、すぐその棟《むね》を飛び出したくらいである。詮《せん》ずるに要領はただ凄《すさ》まじい音を聞いて、同じく凄まじい運動を見たのみである。
股野はその間を馳《か》け回《まわ》って、おい誰さんはいないかねと、しきりに技師を探していた。技師は股野に捕《つら》まるほど閑《ひま》でなかったと見えて、とうとう見当らなかった。
十六
今日は化物屋敷を見て来たと云うと、田中君が笑いながら、夏目さん、なぜ化物屋敷というんだか訳を知っていますかと聞いた。余は固《もと》より下級社員合宿所の標本として、化物屋敷の中を一覧したまでで、化物の因縁《いんねん》はまだ詮議《せんぎ》していなかった。けれども化物屋敷はこれだと云われた時には、うんそうかと云って、少しも躊躇《ちゅうちょ》なく足を踏込《ふんご》んだ。なぜそんな恐ろしい名が、この建物に付纏《つけまと》っているのかと、立ちどまって疑って見る暇も何もなかった。いわゆる化物屋敷はそれほど陰気にでき上がっていた。でき上ったというと新規に拵《こしら》えた意味を含んでいるから、この建築の形容としては、むしろ不適当であるかも知れない。化物屋敷はそのくらい古い色をしている。壁は煉瓦《れんが》だろうが、外部は一面の灰色で、中には日の透《とお》りそうもない、薄暗い空気を湛《たた》えるごとくに思われた。
余はこの屋敷の長い廊下を一階二階三階と幾返《いくかえり》か往来《おうらい》した。歩けば固い音がする。階段《はしごだん》を上《あが》るときはなおさらこつこつ鳴った。階段は鉄でできていた。廊下の左右はことごとく部屋で、部屋という部屋は皆締め切ってあった。その戸の上に、室《しつ》の所有者の標札がかかっている。烈《はげ》しい光線に慣れた眼で、すぐその標札を読もうとすると、判然《はっきり》読めないくらい廊下は暗かった。余はちょっと立ちどまって室《へや》の中を見る訳には行かないのかなと股野に聞いて見た。股野はすぐ持っていた洋杖《ステッキ》で右手の戸をとんと叩《たた》いた。しかしはい[#「はい」に傍点]とも、這入《はい》れとも応《こた》えるものはなかった。股野はまた二番目の戸をとんとん叩いた。これも中はしんとしてい
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