る。股野は毫《ごう》も辟易《へきえき》した気色《けしき》なく無遠慮にそこいら中こつこつ叩いて歩いたが、しまいまで人気《ひとけ》のする室には打《ぶ》つからなかった。あたかも立《た》ち退《の》いた町の中を歩いているような感じがした。三階に来た時、細い廊下の曲り角で一人の女が鍋《なべ》で御菜《おさい》を煮ているのに出逢《であ》った。そこには台所があった。化物屋敷では五六軒寄って一つの台所を持っているのだそうだ。御神《おかみ》さん水は上にありますかと尋ねたら、いえ下から汲《く》んで揚げますと答えた。余はこの暗い町内に、便所がどこにいくつあるか不審に思ったが、つい聞きもせず、女の前を行き過ぎて通ろうとすると、そっちは行きどまりでございますと注意された。道理で真闇《まっくら》であった。
 田中君の話によると、この建物は日露戦争の当時の病院だとか云う事である。戦争が烈《はげ》しくなって、負傷者の数が増して来るに従って、収容した人間に充分の手当ができないばかりでなく、気の毒ながら見殺しにしなければならない兵士がたくさんにできて、それらの創口《きずぐち》から出る怨《うら》みの声が大連中に響き渡るほど凄《すさま》じかったので、その以後はこの一廓《ひとくるわ》を化物屋敷と呼ぶようになった。しかし本当だか嘘《うそ》だか実は僕も保証しないと、田中君自身が笑っていたから、余はなおさら保証しない。
 ただ満鉄の重役が始めて大連に渡ったとき、この化物屋敷に陣を構えた事だけは事実である。その時この建物は化物さえ住みかねるほどに荒れ果てて、残焼家屋《ざんしょうかおく》として、骸骨《がいこつ》のごとくに突っ立っていたそうである。陣取った連中は死物狂で、天候と欠乏と不便に対して戦後の戦争を開始した。汽車の中で炭を焚《た》いて死《し》に損《そく》なったり、貨車へ乗って、カンテラを点《つ》けて用を足そうとすると、そのカンテラが揺《ゆす》ぶれてすぐ消えてしまったり、サイホンを呑むと二三滴口へ這入《はい》るだけであとはすぐ氷の棒に変化したり、すべてが探険と同様であった。
「清野《せいの》が毛織の襯衣《シャツ》を半ダース重ねて着たのは彼時《あのとき》だよ」
「清野は驚いて、あれっきりやって来ない」
 余は田中君と是公がこんな話をするのを聞いて、つい化物屋敷の事を忘れてしまった。

        十七

 三階へ上《あが》って見ると豆ばかりである。ただ窓際《まどぎわ》だけが人の通る幅ぐらいの床《ゆか》になっている。余は静かに豆と壁の間をぐるぐる廻って歩いた。気をつけないと、足の裏で豆を踏み潰《つぶ》す恐れがある上に、人のいない天井裏を無益に響かすのが苦《く》になったからである。豆は砂山のごとく脚下に起伏している。こちらの端から向うの端まで眺めて見ると、随分と長い豆の山脈ができ上っていた。その真中を通して三カ所ほどに井桁《いげた》に似た恰好《かっこう》の穴が掘ってある。豆はその中から断えず下へ落ちて行って、平たく引割られるのだそうだ。時々どさっと音がして、三階の一隅《ひとすみ》に新しい砂山ができる。これはクーリーが下から豆の袋を背負《しょ》って来て、加減の好い場所を見計らって、袋の口から、ばらに打《ぶ》ち撒《ま》けて行くのである。その時はぼうと咽《むせ》るような煙《けむ》が立って、数え切れぬほどの豆と豆の間に潜《ひそ》んでいる塵《ちり》が一度に踊《おど》り上《あが》る。
 クーリーはおとなしくて、丈夫で、力があって、よく働いて、ただ見物するのでさえ心持が好い。彼等の背中に担《かつ》いでいる豆の袋は、米俵のように軽いものではないそうである。それを遥《はるか》の下から、のそのそ背負《しょ》って来ては三階の上へ空《あ》けて行く。空けて行ったかと思うとまた空けに来る。何人がかりで順々に運んでくるのか知れないが、その歩調から態度から時間から、間隔からことごとく一様である。通り路は長い厚板を坂に渡して、下から三階までを、普請《ふしん》の足場のように拵《こしら》えてある。彼等はこの坂の一つを登って来て、その一つをまた下りて行く。上《のぼ》るものと下りるものが左右の坂の途中で顔を見合せてもほとんど口を利《き》いた事がない。彼等は舌のない人間のように黙々として、朝から晩まで、この重い豆の袋を担《かつ》ぎ続けに担いで、三階へ上っては、また三階を下《くだ》るのである。その沈黙と、その規則ずくな運動と、その忍耐とその精力とはほとんど運命の影のごとくに見える。実際立って彼等を観察していると、しばらくするうちに妙に考えたくなるくらいである。
 三階から落ちた豆が下へ回るや否や、大きな麻風呂敷《あさぶろしき》が受取って、たちまち釜《かま》の中に運び込む。釜の中で豆を蒸《む》すのは実に早いものである。入れるか
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