躍している。闥《ドーア》を排《はい》して這入って来るや否や、どうだ相変らず頑健《がんけん》かねと聞かざるを得なかったくらいである。
十四
ええまあ相変らずでと、橋本は案に相違した落ちつき方である。昔予備門に這入って及第だとか落第だとか騒いでいた時分にはけっしてこう穏かじゃなかった。彼の鼻の先が反返《そりかえ》っているごとく、彼は剽軽《ひょうきん》でかつ苛辣《からつ》であった。余はこの鼻のためによく凹《へこ》まされた事を記憶している。
その頃は大勢で猿楽町《さるがくちょう》の末富屋《すえとみや》という下宿に陣取っていた。この同勢は前後を通じると約十人近くあったが、みんな揃《そろ》いも揃った馬鹿の腕白で、勉強を軽蔑《けいべつ》するのが自己の天職であるかのごとくに心得ていた。下読などはほとんどやらずに、一学期から一学期へ辛《かろ》うじて綱渡りをしていた。英語は教場であてられた時に、分らない訳《やく》を好い加減につけるだけであった。数学はできるまで塗板《ボールド》の前に立っているのを常としていた。余のごときは毎々一時間ぶっ通しに立往生をしたものだ。みんなが代数書を抱えて今日も脚気《かっけ》になるかなど云っては出かけた。
こう云う連中だから、大概は級の尻《しり》の方に塊《かた》まって、いつでも雑然と陳列《ちんれつ》されていた。余のごときは、入学の当時こそ芳賀矢一《はがやいち》の隣に坐っていたが、試験のあるたんびに下落して、しまいには土俵際《どひょうぎわ》からあまり遠くない所でやっと踏《ふ》み応《こた》えていた。それでも、みんな得意であった。級の上にいるものを見て、なんだ点取がと云って威張っていたくらいである。そうして、稍《やや》ともすると、我々はポテンシャル・エナージーを養うんだと云って、むやみに牛肉を喰って端艇《ボート》を漕《こ》いだ。試験が済むとその晩から机を重ねて縁側《えんがわ》の隅《すみ》へ積み上げて、誰も勉強のできないような工夫をして、比較的広くなった座敷へ集って腕押《うでおし》をやった。岡野という男はどこからか、玩具《おもちゃ》の大砲を買って来て、それをポンポン座敷の壁へ向って発射した。壁には穴がたくさん開《あ》いた。試験の成績が出ると、一人では恐《こわ》いからみんなを駆《か》り催《もよお》して揃って見に行った。するとことごとく六十代で際《きわ》どく引っ掛っている。橋本は威勢の好い男だから、ある時詩を作って連中一同に示した。韻《いん》も平仄《ひょうそく》もない長い詩であったが、その中に、何ぞ憂《うれ》えん席序下算《せきじょかさん》の便《べん》と云う句が出て来たので、誰にも分らなくなった。だんだん聞いて見ると席序下算の便とは、席順を上から勘定《かんじょう》しないで、下から計算する方が早分りだと云う意味であった。まるで御籤《おみくじ》みたような文句である。我々はみんなこの御籤にあたってひやひやしていた。
そのうち下算《かさん》にも上算《じょうさん》にもまるで勘定に這入らないものが、ぽつぽつできて来た。一人消え、二人消えるうちに橋本がいた。是公《ぜこう》がいた。こう云う自分もいた。大連で是公に逢《あ》って、この落第の話が出た時、是公は、やあ、あの時貴様も落第したのかな。そいつは頼母《たのも》しいやと大いに嬉《うれ》しがるから、落第だって、落第の質《たち》が違わあ。おれのは名誉の負傷だと答えておいた。
是公だの、余だの、今の旅順の警視総長《けいしそうちょう》だのが落ちながら、ぶら下がっている間に、左五だけは決然として北海道へ落ち延びたのである。その落第の張本《ちょうほん》とも云うべき彼が、いくら年を取ったって、かほどに慇懃《いんぎん》になろうとは思いも寄らぬ事であった。今日は午後から満鉄の社へ行って、蒙古旅行に関する話をするんだと云っている。
十五
河村さんの書いてくれた表《ひょう》を見ると、娯楽機関という題目のもとに、倶楽部《クラブ》とか会とか名のつくものが十ばかり並べてある。中にはゴルフ会だの、ヨット倶楽部だのと、名前からして洒落《しゃれ》たのさえ、ちらほら見える。ヨット倶楽部の下に(ただし一|艘《そう》)と括弧《かっこ》で註がついているのは、新設だからまだ一艘しかないという意味なんだろう。
参観すべき場所と云う標題《みだし》のもとには、山城町《やまぎちょう》の大連医院だの、児玉町《こだまちょう》の従業員養成所だの近江町《おうみちょう》の合宿所だの、浜町《はまちょう》の発電所だの、何だのかだのみんなで十五六ほどある。なるほどこれでは大連に一週間ぐらいいなければ、満鉄の事業も一通り観《み》る訳に行かないと云われるはずだ。しかも是公《ぜこう》は是非共|万遍《まんべん》なくよく観て
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