その上犬が来て真水英夫《まみずひでお》の脚絆《きゃはん》を啣《くわ》えて行った。夜が白んで物の色が仄《ほのか》に明るくなった頃、御互の顔を見渡すと、誰も彼も奇麗《きれい》に砂だらけになっている。眼を擦《こす》ると砂が出る。耳を掘《ほじ》くると砂が出る。頭を掻《か》いても砂が出る。七人はそれで江の島へ渡った。その時夜明けの風が島を繞《めぐ》って、山にはびこる樹《き》がさあと靡《なび》いた。すると余の傍《そば》に立っていた是公が何と思ったものか、急にどうだ、あの樹を見ろ、戦々兢々《せんせんきょうきょう》としているじゃないかと云った。
草木の風に靡《なび》く様を戦々兢々と真面目《まじめ》に形容したのは是公が嚆矢《はじめ》なので、それから当分の間は是公の事を、みんなが戦々兢々と号していた。当人だけは、いまだに戦々兢々で差支《さしつか》えないと信じているかも知れないんだから、ゼントルメン大いに飲みましょうも、この際亜米利加語として士官側に通用したと心得ているんだろう。通じた証拠《しょうこ》には胴上にしたじゃないかくらい、酔《よ》うと云いかねない男である。
十三
昨夕は川崎造船所の須田君《すだくん》からいっしょに晩食《ばんめし》でも食おうと云う案内があったが、例のごとく腹が痛むので、残念ながら辞退して、寝室で肉汁《ソップ》を飲んで寝てしまった。朝起きるや否や、もう好かろうと思って、腹の近所へ神経をやって、探《さぐ》りを入れて見ると、やッぱり変だ。何だか自分の胃が朝から自分を裏切ろうと工《たく》んでいるような不安がある。さてどこが不安だろうと、局所を押えにかかると、どこも応じない。ただ曇った空のように、鈍痛《どんつう》が薄く一面に広がっている。苦《にが》い顔をして食堂へ下りて飯をすましてまた室《へや》へ帰ってぼんやりしていると、河村さんが戸口まで来て、今夜満鉄のものが主人役になってあなたがた二三名を扇芳亭《せんぼうてい》へ招待したいからと云う叮嚀《ていねい》な御挨拶《ごあいさつ》である。どうもせっかくですが、実はこれこれでと断ると、そうですか、実は総裁も今夜は所労で出られませんと答えて帰られた。
河村君が帰るや否や股野が案内もなくやって来た。今日は襟《えり》の開《あ》いた着物を着て、ちゃんと白い襯衣《シャツ》と白い襟《えり》をかけているから感心した。股野と少し話しているところへ、また御客があらわれた。ボイの持って来た名刺には東北大学教授|橋本左五郎《はしもとさごろう》とあったので、おやと思った。
橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水《ごくらくみず》の傍《そば》で御寺の二階を借りていっしょに自炊《じすい》をしていた事がある。その時は間代《まだい》を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を焚《た》いて、それで月々二円ですんだ。もっとも牛肉は大きな鍋《なべ》へ汁をいっぱい拵《こしら》えて、その中に浮かして食った。十銭の牛《ぎゅう》を七人で食うのだから、こうしなければ食いようがなかったのである。飯は釜《かま》から杓《しゃく》って食った。高い二階へ大きな釜を揚《あ》げるのは難義であった。余はここで橋本といっしょに予備門へ這入《はい》る準備をした。橋本は余よりも英語や数字において先輩であった。入学試験のとき代数がむずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰って、その御蔭《おかげ》でやっと入学した。ところが教えた方の橋本は見事に落第した。入学をした余もすぐ盲腸炎に罹《かか》った。これは毎晩寺の門前へ売りに来る汁粉《しるこ》を、規則のごとく毎晩食ったからである。汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと団扇《うちわ》をばたばたと鳴らした。そのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。したがって、余はこの汁粉屋の爺《おやじ》のために盲腸炎にされたと同然である。
その後《のち》左五《さご》は――当時余等は橋本を呼んで、左五左五と云っていた。実際彼は岡山の農家の生れであった。――左五はその後追試験に及第したにはしたが、するかと思うとまた落第した。そうして、何だ下らないと云って北海道へ行って農学校へ這入《はい》ってしまった。それから独逸《ドイツ》へ行った。独逸へ行って、いつまで経《た》っても帰らない。とうとう五年か六年かいた。つまり留学期限の倍か倍以上も向うで暮した事になる、その費用はどうして拵えたものかとんと分らない。
この橋本が不思議にも余より二三月前に満鉄の依頼に応じて、蒙古《もうこ》の畜産事状を調査に来て、その調査が済んで今大連に帰ったばかりのところへ出っ食わしたのである。顔を見ると、昔から慓悍《ひょうかん》の相《そう》があったのだが、その慓悍が今蒙古と新しい関係がついたため、すこぶる活
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