当時股野は三池《みいけ》の炭坑に在勤していたが、どう云う間違か、多々羅三平はすなわち股野義郎であると云う評判がぱっと立って、しまいには股野を捕《つか》まえて、おい多々羅君などと云うものがたくさん出て来たそうである。そこで股野は大いに憤慨して、至急親展の書面を余に寄せて、是非取り消してくれと請求に及んだ。余も気の毒に思ったが、多々羅三平の件をことごとく削除《さくじょ》しては、全巻を改板《かいはん》する事になるから、簡潔|明瞭《めいりょう》に多々羅三平は股野義郎にあらずと新聞に広告しちゃいけないかと照会したら、いけないと云って来た。それから三度も四度も猛烈な手紙を寄こしたあとで、とうとうこう云う条件を出した。自分が三平と誤られるのは、双方とも筑後《ちくご》久留米《くるめ》の住人だからである。幸い、肥前《ひぜん》唐津《からつ》に多々羅《たたら》の浜《はま》と云う名所があるから、せめて三平の戸籍だけでもそっちへ移してくれ。これだけは是非御願するとあったんで、余はとうとう三平の方を肥前唐津の住人に改めてしまった。今でも「猫」を御読みになれば分る。肥前の国は唐津の住人多々羅三平とちゃんと訂正してある。
 こう云う訳で余と因縁《いんねん》の浅からざる股野に、ここでひょっくり出逢《であ》うとは全く思いがけなかった。しかも、その家へ呼ばれて御馳走《ごちそう》になったり、二三日間朝から晩まで懇切に連れて歩いて貰ったり、昔日《せきじつ》の紛議《ふんぎ》を忘れて、旧歓《きゅうかん》を暖める事ができたのは望外《ぼうがい》の仕合《しあわせ》である。実を云うと、余は股野がまだ撫順《ぶじゅん》にいる事とばかり思っていた。
 余は大連で見物すべき満鉄の事業その他を、ここで河村さんと股野に、表《ひょう》のような形に拵《こしら》えて貰《もら》った。

        十二

 腹がしきりに痛むので、寝室へ退いて、長椅子の上に横になっていると、窓を撲《う》つ雨の音がしだいに繁《しげ》くなった。これじゃ舞踏会に行く連中も、だいぶ御苦労様な事になったものだと思って、ポッケットから招待状を出して寝ながら、また眺めて見た。絵葉書ぐらいの大きさの厚紙の一面には、歌麿《うたまろ》の美人が好い色に印刷されている。一面には中村是公同夫人連名で、夏目金之助を招待している。よくこんなものを拵える時間があったなと感心して、うとうとしかけたところへ、ボーイ頭《がしら》が来て、ただいま総裁からの電話で、今夜舞踏会へおいでになるか伺《うかが》えと云う事でございますがと云うから、行かないと返事をしてくれと頼んで、本当に寝てしまった。眼が覚《さ》めたら雨はいつの間にか歇《や》んで、奇麗《きれい》な空が磨き上げたように一色《ひといろ》に広く見える中に、明かな月が出ていた。余は硝子越《ガラスごし》にこの大きな色を覗《のぞ》いて、思わず是公のために、舞踏会の成功を祝した。
 後で本人に聞いて見ると、是公はその夜舞踏の済んだ後で、多数の亜米利加士官《アメリカしかん》と共に倶楽部《クラブ》のバーに繰り込んだのだそうだ。そこで、士官連が是公に向って、今夜の会は大成功であるとか、非常に盛《さかん》であったとか、口々に賛辞を呈《てい》したものだから、是公はやむをえず、大声《たいせい》を振り絞《しぼ》って gentlemen《ゼントルメン》! と叫んだ。すると今までがやがや云っていた連中が、総裁の演説でも始まる事と思って、一度に口を閉《と》じて、満場は水を打ったように静かになった。是公は固《もと》よりゼントルメンの後《あと》を何とかつけなければならない。ところがゼントルメン以外の英語があいにく一言《ひとこと》も出て来なかった。英語と云う英語は頭の底からことごとく酒で洗い去られてしまっているので、仕方なしに、急に日本語に鞍換《くらがえ》をして、ゼントルメンの次へもってきて、すぐ大いに飲みましょうと怒鳴《どな》った。ゼントルメン大いに飲みましょうは、たいていの亜米利加人《アメリカじん》に通じる訳のものではないが、そこがバーのバーたるところで、ゼントルメン大いに飲みましょうとやるや否や、士官連がわあっと云って主人公を胴上《どうあげ》にしたそうである。
 明治二十年の頃だったと思う。同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで日着《ひづき》日帰《ひがえ》りの遠足をやった事がある。赤毛布《あかげっと》を背負《しょ》って弁当をぶら下げて、懐中にはおのおの二十銭ずつ持って、そうして夜の十時頃までかかって、ようやく江の島のこっち側《がわ》まで着いた事は着いたが、思い切って海を渡るものは誰もなかった。申し合せたように毛布《けっと》に包《くる》まって砂浜の上に寝た。夜中に眼が覚《さ》めると、ぽつりぽつりと雨が顔へあたっていた。
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