は皆出ていた。それに一々紹介された。その中《うち》で昔見た田中君の顔を覚えていた。どうです始めて大連に御着きになった時の感想はと聞かれるから、そうです船から上がってこっちへ来る所は、まるで焼迹《やけあと》のようじゃありませんかと、正直な事を答えると、あすこはね、軍用地だものだから建物を拵《こしら》える訳に行かないんで、誰もそう云う感じがするんですと教えられた。
しばらく椅子に腰を掛けて、おとなしく執務の様子を見ていると、じき午《ひる》になった。さあ飯を食おうと、食堂へ案内された。ここへと云う席へ坐って、サーヴィエットを取り上げると、給仕が来て、それは国沢さんのですから、ただいま新しいのを持って参りますと云った。食堂は社の表二階にあたる大広間で、晩になれば、それが舞踏室に変化するほどの大きなものであった。これは社員全体に向って公開してあるのだそうだが、同じ食卓に着いた人の数を云うと、約三十人に過ぎなかった。この人数《にんず》から推して、あるいは制限でもありはせぬのかと思ったのは余の想像に過ぎなかった。
料理は大和《やまと》ホテルから持って来るのだそうで、同席の三十余人が、みな一様の皿を平らげていた。胃が痛いので肉刀《ナイフ》と肉匙《フォーク》は人並《ひとなみ》に動かしたようなものの、その実《じつ》は肉も野菜も咽喉《のど》の奥へ詰め込んだ姿である。一つどうですと向う側の田中君から瓢箪形《ひょうたんがた》の西洋梨《せいようなし》を勧《すすめ》られた時は、手を出す勇気すらなかった。
十一
河村調査課長の前へ行って挨拶《あいさつ》をすると、河村さんは、まあおかけなさいと椅子を勧めながら、何を御調べになりますかと叮嚀《ていねい》に聞かれる。何を調べるほどの人間でもないんだから、この問に逢《あ》った時は実は弱った。先刻《さっき》重役室へ河村さんが這入《はい》って来たとき、是公《ぜこう》が余を紹介して、河村さん満鉄の事業の種類その他について、あとでこの男にすっかり説明してやって下さいと云ったのが本《もと》で、とうとう余は調査課へ来るような訳になったものの、その実《じつ》世間の知るごとき人間なんだから、こう真面目《まじめ》に、どう云う方面の研究をやる気かと尋ねられるとはなはだ迷《まご》ついてしまう。そうかと云って、けっして悪気があって冷かしに来た次第でない事もまた、世間の知る通りなんだから、河村さんに対して敬意を失するような冗談は云えた義理のものでない。やむをえず、しかつめらしい顔をして、満鉄のやっているいろいろな事業一般について知識を得たいと述べた。――何でも述べたつもりである。固《もと》より内心に確乎《かっこ》たる覚悟があって述べる事でないんだから、顔だけはしかつめらしいが、述べる事の内容は、すこぶる赤毛布式《あかげっとしき》に縹緲《ひょうびょう》とふわついていたに違ない。ただ今から顧みても、少し得意なのは、その時余の態度挙動は非常に落ちついて、魂がさも丹田《たんでん》に膠着《こうちゃく》しているかのごとく河村さんには見えたろうという自覚である。人を欺《だま》し終《おお》せて知らん顔をしているのは善《よ》くない事だから、ここで全く懺悔《ざんげ》してしまうが、実を云うと、その時は胃がしくしく痛んで、言葉に抑揚をつけようにも、声に張りを見せようにも、身体《からだ》に活気を漲《みな》ぎらせようにも、とうてい自己が自己以上に沈着してしまって、一寸《いっすん》もあがきが取れなかったのである。
そこへ大きな印刷ものが五六冊出て来た。一番上には第一回営業報告とある。二冊目は第二回で、三冊目は第三回で、四冊目は第四回の営業報告に違ない。この大冊子を机の上に置いて、たいていこれで分りますがねと河村さんが云い出した時は、さあ大変だと思った。今この胃の痛い最中にこの大部の営業報告を研究しなければすまない事になっては、とうてい持ち切れる訳のものではない。余はまだ営業報告を開《あ》けないうちに、早速|一工夫《ひとくふう》してこう云った。――私は専門家でないんですから、そう詳《くわし》い事を調査しても、とても分りますまいと思いますので、ただ諸君がいろいろな方面でどんな風に働いていられるか、ざあっとその状況を目撃さしていただけばたくさんですから、縦覧《じゅうらん》すべき箇所を御面倒でもちょっと書いて下さいませんか。
河村さんははあそうですかと、気軽にすぐ筆を執《と》ってくれた。ところへどこからか突然妙な小さな男があらわれて、やあと声をかけた。見ると股野義郎《またのよしろう》である。昔「猫」を書いた時、その中に筑後《ちくご》の国は久留米《くるめ》の住人に、多々羅三平《たたらさんぺい》という畸人《きじん》がいると吹聴《ふいちょう》した事がある。
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