通の石鹸と別に変ったところもないようだから、ただなるほどと云ったなり眺めていた。すると、この石鹸に面白いところは、塩水に溶解するから奇体ですよとの追加があったので、急に貰って行く気になって葢《ふた》をした。
柞蚕《さくさん》から取った糸を並べて、これが従来の奴ですと云うのを見ると、なるほど色が黒い。こっちは精製した方でと、傍《そば》に出されると全く白い。かつ節《ふし》なしにでき上っている。これで織ったのがありますかと聞いて見ると、あいにく有りませんと云う答である。しかしもし織ったらどんなものができるでしょうと聞くと、羽二重《はぶたえ》のようなものができるつもりですと云う。その上|価段《ねだん》が半分だと云う。柞蚕《さくさん》から羽二重《はぶたえ》が織れて、それが内地の半額で買えたらさぞ善《よ》かろう。
高粱酒《こうりょうしゅ》を出して洋盃《コップ》に注《つ》ぎながら、こっちが普通の方で、こっちが精製した方でと、またやりだしたから、いや御酒はたくさんですと断った。さすが酒好きの是公も高粱酒の比較飲みは、思わしくないと見えて、並製も上製も同じく謝絶した。是公の話によると、この間|高峯譲吉《たかみねじょうきち》さんが来て、高粱からウィスキーを採《と》るとか採らないとかしきりに研究していたそうである。ウィスキーがこの試験場でできるようになったら是公がさぞ喜んで飲む事だろう。
陶器を作っている部屋もあったようだが、これはほんの試験中で、並製も上製もないようであった。
中央試験所を出て、五六町来ると、馬車を下りて草の中に迷い込んだ。路のない谷へ下りたり、足場のない岡へ上《のぼ》ったりするので、汗が出て、顔の皮がひりひりして来た。その上胃がしきりに痛む。是公に聞いて見ると、射撃場へ連れて行ってやるんだと云うから、例の連れて行ってやると云う厚意に免《めん》じて、腹の痛いのを我慢して目的の家まで行ってすぐ椅子《いす》の上へ腰をかけてしまった。是公がしきりに鉄砲の話をするようであったが、とんと頭に響かない。何でもこの家だけは会社から寄附してやった。これでも二千円とか三千円とかかかったという事だけがようやく耳に這入《はい》った。
そこへ汚《きた》ない支那人が二三人、奇麗《きれい》な鳥籠《とりかご》を提《さ》げてやって来た。支那人て奴《やつ》は風雅《ふうが》なものだよ。着るものもない貧乏人のくせに、ああやって、鳥をぶら下げて、山の中をまごついて、鳥籠を樹《き》の枝に釣るして、その下に坐って、食うものも食わずにおとなしく聞いているんだよ。それがもし二人集まれば鳴《な》き競《くらべ》をするからね。ああ実に風雅なものだよ。としきりに支那人を賞《ほ》めている。余はポッケットからゼムを出して呑《の》んだ。
十
政樹公《まさきこう》が大連の税関長になっていると聞いてちょっと驚いた。政樹公には十年|前《ぜん》上海《シャンハイ》で出逢《であ》ったきりである。その時政樹公は、サー・ロバート・ハートの子分になって、やはりそこの税関に勤務していた。政樹公の大学を卒業したのは余より二年前で、二人共同じ英文科の出身だから、職業違いであるにかかわらず、比較的縁が近いのである。
政樹公の姓は立花《たちばな》と云って柳川藩《やながわはん》だから、立派な御侍《おさむらい》に違ない。それをなぜ立花さんと云わないで、政樹公と呼ぶかと云うに、同じ頃同じ文科に同藩から出た同姓の男がいた。しかも双方共寄宿舎に這入《はい》っていたものだから、立花君や立花さんでは紛《まぎ》れやすくていけない。で一方は政樹という名だから政樹公と呼び、一方は銑三郎《せんざぶろう》という俗称だから銑《せん》さん銑さんと云った。なぜ片っ方が公《こう》なのに、片っ方はさん[#「さん」に傍点]づけにされてしまったのか、ちょっと分らない。銑さんの方は、余と前後して洋行したが、不幸にして肺病に罹《かか》って、帰り路に香港《ホンコン》で死んでしまった。そこで残るは政樹公ばかりになった。したがって政樹公をやめて立花君と云ったって、少しも混雑はしないのだが、つい立花よりは政樹公の方が先へ出る。やっぱり中村とも総裁とも云わないで是公《ぜこう》と云《い》い馴《な》れたようなものだろう。
ここだと云うので、二人馬車を下りて税関に這入って見ると、あいにく政樹公は先刻《さっき》具合が悪いとかで家《うち》へ帰った後であった。こっちの都合もあるし、所労《しょろう》の人に迷惑をかけるのも本意でないから、他日を期して税関を出た。すると今度は馬車が満鉄の本社へ横づけになった。広い階子段《はしごだん》を二階へ上がって、右へ折れて、突き当りをまた左へ行くと、取付《とっつき》が重役の部屋である。重役は東京に行ってるもののほか
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