ローアムに致しますかと給仕が聞いた。いや開《ひら》いた奴が好いと命じている。余は石段の上に立って、玄関から一直線に日本橋まで続いている、広い往来を眺めた。大連の日は日本の日よりもたしかに明るく眼の前を照らした。日は遠くに見える、けれども光は近くにある、とでも評したらよかろうと思うほど空気が透《す》き徹《とお》って、路《みち》も樹《き》も屋根も煉瓦《れんが》も、それぞれ鮮《あざ》やかに眸《ひとみ》の中に浮き出した。
やがて蹄《ひづめ》の音がして、是公の馬車は二人の前に留まった。二人はこの麗《うらら》かな空気の中をふわふわ揺られながら日本橋を渡った。橋向うは市街である。それを通り越すと満鉄の本社になる。馬車は市街の中へ這入《はい》らずに、すぐ右へ切れた。気がついて見ると、遥向《はるかむこ》うの岡《おか》の上に高いオベリスクが、白い剣《つるぎ》のように切っ立って、青空に聳《そび》えている。その奥に同じく白い色の大きな棟《むね》が見える。屋根は鈍《にぶ》い赤で塗ってあった。オベリスクの手前には奇麗《きれい》な橋がかかっていた。家も塔も橋も三つながら同じ色で、三つとも強い日を受けて輝いた。余は遠くからこの三つの建築の位地《いち》と関係と恰好《かっこう》とを眺めて、その釣合のうまく取れているのに感心した。
あれは何だいと車の上で聞くと、あれは電気公園と云って、内地にも無いものだ。電気仕掛でいろいろな娯楽をやって、大連の人に保養をさせるために、会社で拵《こしら》えてるんだと云う説明である。電気公園には恐縮したが、内地にもないくらいのものなら、すこぶる珍らしいに違ないと思って、娯楽ってどんな事をやるんだと重ねて聞き返すと、娯楽とは字のごとく娯楽でさあと、何だか少々|危《あや》しくなって来た。よくよく糺明《きゅうめい》して見ると、実は今月末《こんげつすえ》とかに開場するんで、何をやるんだか、その日になって見なければ、総裁にも分らないのだそうである。
そのうち馬車が、電車の軌道《レール》を敷いている所へ出た。電車も電気公園と同じく、今月末に開業するんだとか云って、会社では今支那人の車掌運転手を雇って、訓練のために、ある局部だけの試運転をやらしている。御忘れものはありませんか、ちんちん動きますを支那の口で稽古《けいこ》している最中なのだから、軌道《レール》がここまで延長して来るのは、別段怪しい事もないが、気がついて見ると、鉄軌《レール》の据《す》え方《かた》が少々違うようである。第一内地のように石を敷かない計画らしい。御影石《みかげいし》が払底《ふってい》なのかいと質問して見たら、すぐ、冗談云っちゃいけないとやられてしまった。これが最新式の敷方《しきかた》なんで、土台をどうとかして、どうとかして、鉄軌と鉄軌の間を混合金属で塗り固めて全線をたった一本の長い棒にしてしまって……とあたかも自分が技師であるかのごとき自慢である。内地から来たものはなるほど田舎《いなか》もの取扱にされても仕方がない。そいつは感心だと、全く感心すると、技師を信任して、少しも口を出さずに、どうでも自分の思った通りをやらせるから、そんな仕事もできるのさと云った。内地では何でもやかましく干渉する奴がたくさん出て来るものと見える。
馬車が岡の上へ出た。そこはまだ道路が完成していないので、満洲特有の黄土《こうど》が、見るうちに靴の先から洋袴《ズボン》の膝《ひざ》の上まで細かに積もった。この辺ももう少しすると、ホテルの前のように、カンカンした路に変化する事だろうが、そんな事を口外すれば、是公がますます得意になるばかりだから、わざと黙っていた。
九
これが豆油《まめあぶら》の精製しない方で、こっちが精製した方です。色が違うばかりじゃない、香《におい》も少し変っています。嗅《か》いで御覧なさいと技師が注意するので嗅いで見た。
用いる途《みち》ですか、まあ料理用ですね。外国では動物性の油が高価ですから、こう云うのができたら便利でしょう。第一大変安いのです。これでオリーブ油の何分の一にしか当らないんだから。そうして効用は両方共ほぼ同じです。その点から見てもはなはだ重宝《ちょうほう》です。それにこの油の特色は他の植物性のもののように不消化でないです。動物性と同じくらいに消化《こな》れますと云われたので急に豆油がありがたくなった。やはり天麩羅《てんぷら》などにできますかと聞くと、無論できますと答えたので、近き将来において一つ豆油の天麩羅を食ってみようと思ってその室を出た。
出がけに御邪魔でもこれをお持ちなさいと云って細長い箱をくれたから、何だろうと思って、即座に開けて見ると、石鹸《シャボン》が三つ並んでいた。これがやっぱり同じ材料から製造した石鹸ですと説明されたが、普
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