に鳴った。一丁ばかり行って正面に曲ると、左右に石の象がいた。大きくって、鷹揚《おうよう》で、しかも石だからはなはだ静かである。突き当りにある楼門のような所へ這入ったら、今度は大きな亀の背に頌徳碑《しょうとくひ》が立ててあった。亀も大きかったが、碑も高い。蒙古と満洲と支那の三国語で文章が刻ってある。後へ出ると隆恩門《りゅうおんもん》と云うのが空に聳《そび》えていた。積み上げたアーチの上を見ると三層あった。左右に回《めぐ》らしてある壁も尋常ではない。あの上を歩いて見たいと番頭に頼むと、ええ今乗って見ましょうと云って中へ這入った。中は真四角に仕切ってある。正面にある廟《びょう》の横から石段を登って壁の上へ出ると、廟《びょう》の後《うしろ》だけが半月形《はんげつけい》になっていわゆる北陵《ほくりょう》を取り巻いている。
支那の小僧が跣足《はだし》で跟《つ》いて来た。番頭を捕《つら》まえてしきりにこそこそ何か云っている。番頭に聞くと、ええなにと曖昧《あいまい》な答をする。また聞き返したらこう云った。――屋根の廂《ひさし》の所に着けてある金の玉を、この間一つ落ちた時に、拾っておいたから、買ってくれと云うんです。表向《おもてむき》にすると厳《きび》しいものですから、こうして見物に来た時、そうっと売りつけようてんで、支那人は実《じつ》に狡猾《こうかつ》ですからね。
支那の陵守《りょうもり》も無論狡猾だろうが、金の玉を安く買おうと云う番頭もあまり正直な方じゃない。番頭はそっと銭《ぜに》をやって金の玉をポッケットへ入れたようである。
壁の上を歩くと太い樹が眼の下に見える。桑があんなに大きくなってますと番頭が指《ゆびさ》した。なるほど一抱《ひとかかえ》もある。この四角な壁の一側《ひとかわ》は長さどのくらいかねと尋ねると、へえ今|勘定《かんじょう》して見ましょうと云いながら、一歩《ひとあし》二尺の割で、一二三四と歩いて行った。余は壁の外を見下《みおろ》して、そこらを絡《から》んでいる赤い木の実を眺めていた。せっかく番頭の勘定した壁の長さは忘れてしまった。
五十一
撫順《ぶじゅん》は石炭の出る所である。そこの坑長《こうちょう》を松田さんと云って、橋本が満洲に来る時、船中で知己《ちかづき》になったとかで、その折の勧誘通り明日《あす》行くと云う電報を打った。汽車に乗ると西洋人が二人いた。朝早いので、客車内で持参の弁当か何か食っていたが、撫順に着いたら我々といっしょに汽車を降りた。出迎えのものが挨拶《あいさつ》しているところを聞いて見ると、そのうちの一人は奉天の英国領事であった。我々もこの英人等といっしょに炭坑の事務室に行って、二階で松田さんに逢った。松田さんは縞《しま》の縮《ちぢみ》の襯衣《シャツ》の上に薄い背広を着ていた。背の低い気軽な人なので、とうてい坑長とは思えなかった。我々と英国人を二所《ふたところ》に置いて、双方へ向けて等分に話をした。橋本も余も英語はいっさい口にしなかった。したがって英人とは言葉を交《まじ》えなかった。
やがて松田さんが案内になって表へ出た。貯水池の土堤《どて》へ上《あが》ると、市街が一目に見える。まだ完全にはでき上っていないけれども、ことごとく煉瓦作《れんがづく》りである上に、スチュジオにでも載りそうな建築ばかりなので、全く日本人の経営したものとは思われない。しかもその洒落《しゃれ》た家がほとんど一軒ごとに趣《おもむき》を異《こと》にして、十軒|十色《といろ》とも云うべき風に変化しているには驚いた。その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある、坑員の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来て眺めたいものばかりであった。松田さんに聞いたら皆日本の技師の拵《こしら》えたものだと云われた。
市街から眼を放して反対の方角を眺めると、低い丘の起伏している向うに煙突の頭が二カ所ほど微《かす》かに見える。双方共距離はたしかに一里以上あるんだから広い炭坑に違ない。松田さんの話しによると、どこをどう掘っても一面の石炭だから、それを掘尽くすには百年でも二百年でもかかるんだそうである。我々の立っているつい傍《そば》でも、八百尺と九百尺のシャフトを抜いていた。
事務所へ帰って午餐《ひるめし》の御馳走《ごちそう》になったとき英国人は箸《はし》も持てず米も喰えず気の毒なものであった。この領事は支那に十八年とかいたと云うのに、二本の箸を如何《いかん》ともする事のできないのは案外である。その代り官話《かんわ》は達者だそうだ。松田さんは用事が忙《いそが》しいとかで、食卓へは出て来られなかった。接待役として松田さんに代った人は、英語で英国人に話したり、日本語で余等に話したりはなはだ多事であった。けれども
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