に延びて行く。
 支那人の馬車が来た。屋根に蒲鉾形《かまぼこがた》の丸味を取った棺《かん》のようなもののなかに、髪を油で練固《ねりかた》めた女が坐っている。長柄《ながえ》は短いが、車の輪は厚く丈夫なものであった。云うまでもなく騾馬《らば》に引かしている。まず日本の昔に流行《はや》った牛車《うしぐるま》の小ぢんまりしたものと思えば差支《さしつか》えないが、見たところは牛車よりもかえって雅《が》である。その代り乗ってる人間は苦しいそうだ。余はこの車のごろごろ行くところを見て、※[#「車+兒」、第4水準2−89−65]《げい》たり※[#「車+兀」、555−3]《げつ》たりと形容したくなった。※[#「車+兒」、第4水準2−89−65]の字も※[#「車+兀」、555−3]の字も判然たる意味を知らないのだが、乗ってる人は定めて※[#「車+兒」、第4水準2−89−65]※[#「※」は「車+兀」、555−4]《げいげつ》たるものに相違なかろうと思ったからである。実を云うと※[#「車+兒」、第4水準2−89−65]※[#「車+兀」、555−5]たるものは支那の車ばかりではない。こう云う自分もはなはだ危《あや》しかった。一望して原だよと澄ましていればそれまでの事で、仰《おおせ》のごとく平《たい》らにも見えるが、いざ時間に制限を切って、突切《つっき》って見ろと云われると、恐ろしく凸凹《でこぼこ》ができてくる。おいここで馬車の引っくり返る事はあるまいなと番頭に念を押すと、番頭はええ、まあたいてい大丈夫でしょうと云うだけで、けっして万一を受け合わない。どうも並んでいる番頭の座が急に高くなって、番頭そのものが余の方に摺落《ずりお》ちて来そうになったり、またはあべこべに、余が番頭のシャッポの上に顛《ころ》び落ちそうになるのは心好《こころよ》くないものである。余は神経質で臆病な性分《しょうぶん》だから、車が傾くたんびに飛び降りたくなる。しかるに人の気も知らないで、例の御者《ぎょしゃ》が無敵に馬を馳《か》けさせる。いらぬ事だと冷や冷やしているうちに、一カ所路の悪い所へ出た。原因は解らないが、轍の迹が際立《きわだ》って三四十本並んでいる。しかもその幅がいずれも五六寸ある。そうして見るからに深そうに、日影を遮《さえぎ》って、奥の方を黒くかつ暗くしている。我々の御者は平気にそこへ乗り込んだ。順当に乗り込んだのならまだよかったけれども、片方の輪だけが泥の中へぐしゃぐしゃと滅《め》り込《こ》むと同時に、片方は依然として固い土に支えられている。余は泥側《どろがわ》に席を占めていた。すると足が土と擦《す》れ擦れになるまで車が濘海《ぬかるみ》に沈んで来た。番頭は余の頭の上にあるごとく感ぜられた。余はたまらなくなって、泥の中へ飛び下りた。

        五十

 原が急に叢《くさむら》に変化するのは不思議であった。ここにこれだけの樹《き》が生えるなら、原の中ももう少し茂って然《しか》るべきであると気がついた時はすでに車の両側が塞《ふさ》がっていた。竹こそないが、藪《やぶ》と云うのが適当と思われるくらいな緑の高さだから、日本の田舎道《いなかみち》を歩くようなおとなしい感じである。ところどころ細い枝などが列を外《はず》れて往来へ差し出ているのを、通りながら潜《くぐ》り抜《ぬ》けたり、撓《しな》わしたりして行き過ぎるのが何より愉快だった。路も先刻《さき》よりは平《ひら》たくなって、真白に草と木の間を貫《つらぬ》いている。ある所には大きな松があった。葉の長さが日本の倍もあって色は海辺《うみべ》のそれよりも黒い。ある所は荒れ果てた庭園の体《てい》に見えた。そう云う場所へ来ると、馬車の上から低い雑木《ぞうき》を一目《ひとめ》に二丁も眺められる。向うに細長い石碑が立っていた。模様だけが薄く見えるが、刻字《こくじ》は無論分らなかった。
 しばらくすると、路が尽きて高い門の下へ出た。門は石を畳《たた》んだ三つのアーチからでき上っているが、アーチの下まで行くにはだいぶ高い石段を登らなくてはならない。門の左右には大きな竜が壁に彫《ほ》り込《こ》んであった。これが正門ですがね、締切りだから壁へ添《つ》いて廻るんですと云って、馬を土堤《どて》のような高い所へ上げた。右は煉瓦《れんが》の壁である。それがところどころ崩《くず》れかかっている。左はだらだらの谷で野葡萄《のぶどう》や雑木が隙間《すきま》なく立て込んだ。路は馬車が辛《かろ》うじて通れるぐらい狭い。そこを廻って横手の門から車を捨てて這入《はい》ると、眼がすっきりと静まった。一抱《ひとかかえ》もある松ばかりが遥《はるか》の向《むこう》まで並んでいる下を、長方形の石で敷きつめた間から、短い草が物寂《ものさ》びて生えている。靴の底が石に落ちて一歩ごと
前へ 次へ
全45ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング