たき》を辿《たど》って突き当る訳になる。肋骨君《ろっこつくん》の説明を聞いて知ったのだが、この突当りが正房《せいぼう》で、左右が廂房《しょうぼう》である。肋骨君はこの正房の一棟《ひとむね》に純粋の日本間さえ設けている。ちょっと見たまえと云って案内するから、後《あと》に跟《つ》いて行くと、思わざる所に玄関があって、次の間が見えて、その奥の座敷には立派な掛物がかかっていた。かと思うと左の廂房の扉を開いてここが支那流の応接間だと云う。なるほど紫檀《したん》の椅子ばかり並んでいる。もっとも西洋の客間と違って室《へや》の真中は塞《ふさ》いでいない。周囲に行儀よく据えつけてある。これじゃ客が来ても向い合って坐る事はできない訳だから、みんな隣同志で話をする男ばかりでなければならない。中にも正面の二脚は、玉座《ぎょくざ》とも云うべきほどに手数の込《こ》んだもので、上に赤い角枕《かくまくら》が一つずつ乗せてあった、支那人てえものは呑気《のんき》なものでね、こうして倚《よ》っかかって談判をするんですと肋骨君が教えてくれた。肋骨君は支那通だけあって、支那の事は何でも心得ている。あるとき余に向って、辮髪《べんぱつ》まで弁護したくらいである。肋骨君の説によると、ああ云うぶくぶくの着物を着て、派出《はで》な色の背中へ細い髪を長く垂らしたところは、振《ふる》え付《つ》きたくなるほど好いんだそうだから仕方がない。実際肋骨君が振え付きたくなると云う言葉を使ったには驚いた。今でもこの言葉を考え出しては驚いている。いっぺん汚《きた》ない爺さんが泥鰌《どじょう》のような奴をあたじけなく頸筋《くびすじ》へ垂らしていたのを見て、ひどく興を覚《さま》したせいだろう。
 これほどの肋骨君も正房の応接間は西洋流で我慢している。その隣の食堂では西洋料理を御馳走《ごちそう》した。それから襯衣《シャツ》一枚で玉を突く。その様子はけっして支那じゃない。万事橋本から聞いたより倍以上|活溌《かっぱつ》にできているところをもって見ると、振え付きたいは少々言い過ぎたのかも知れない。肋骨君は戦争で右か左かどっちかの足を失《な》くした。ところがそれがどっちだか分らないくらい、自由自在に起《た》ったり坐《すわ》ったりする。そうして軍人に似合わないような東京弁を使う。どこで生れたか聞いて見たら、神田だと云った。神田じゃそのはずである。要するに肋骨君は支那好であると同時に、もっとも支那に縁の遠い性質《たち》の人である。
 室《へや》は空《あ》いてるから来たまえとしきりに云ってくれるので、じゃ帰りに厄介になるかも知れないと云うとすぐ宜《よろ》しいと快諾したところだけは旨《うま》かったが、帰りには夜半《よなか》の汽車で奉天へ着く時間割だと橋本から聞くや否や、肋骨君はたちまち宿泊を断った。いや、あの汽車じゃ御免《ごめん》だと云う。もう一つの汽車が好いじゃないかと勧めるんだが、プログラムの全権があいにくこっちにないので、やむをえず、そんなら、もし夜半の汽車でなかったら泊めて貰おうと云う条件をつけた。すると肋骨君はまた宜しいと答えた。ところが帰りにはやっぱり予定通|夜半着《やはんちゃく》の汽車へ乗ったのでとうとう満鉄公所へは泊まれない事になった。満鉄公所で余の知らない所は寝室だけである。

        四十九

 右へ折れると往来とは云われないくらい広い所へ出たのでようやく安心した。これならば人を引殺す心配もなかろうと思って、案内をしてくれる、宿の番頭を相手に、行く行く話をした。満洲の日は例によって秋毫《しゅうごう》の先を鮮《あざや》かに照らすほどに思い切ったものである。眉深《まぶか》に鳥打帽を被《かぶ》っても、三日月形《みかづきがた》の廂《ひさし》では頬から下をどうする事もできないので、直下《じか》に射《い》りつけられる所は痛いくらいほてる。そこへ馬の蹄《ひづめ》に掻《か》き立てられた軽い埃《ほこり》が、車の下から濛々《もうもう》と飛んで来る。番頭は、結構な御日和《おひより》です、少し風でも吹いたらこんなものじゃありませんと喜んでいる。そのうち馬車が家を離れて広い原へ出た。原だから無論|樹《き》も草も見えないのは当然だが、遠く眺めると、季節だけに青いものが際限のない地の上皮《うわがわ》に、幾色かの影になって、一面に吹き出している。なぜこれほどの地面を空《むな》しく明けておくかは、家屋の発展に忙殺《ぼうさい》されつつある東京ものの眼には即時の疑問として起《おこ》る訳であるが、この際はそれよりも窮屈な人間を通り抜けて晴々《せいせい》したと云う意識の方が一度に余の頭を照らした。路は固《もと》よりついていない。東西南北共に天に作った路であるから、轍《わだち》の迹《あと》は行く人の心任せに思い思いの見当《けんとう》
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