ほこり》を一度に頭から浴びると云う苦痛だけであった。余の車屋はこの暗い門の下を潜って、城内の満鉄公所まで、悪辣無双《あくらつむそう》に引いて行った。余は生きた風呂敷包のごとく車の上で浮沈《ふちん》した。

        四十七

 茶を飲むと、酸《す》いような塩はゆいような一種の味がする。少し妙だと思って、茶碗を下へ置いてゆっくり橋本の講釈を聞いた。その講釈によると、奉天には昔から今日《こんにち》に至るまで下水と云うものがない。両便の始末は無論不完全である。そこで古来から何百年となく奉天の民が垂れ流した糞小便《くそしょうべん》が歳月の力で自然天然《じねんてんねん》に地《じ》の底に浸《し》み込んで、いまだに飲料水に祟《たた》りをなしているんだと云う。一応はもっともだが、説明が少し科学的でないようである。第一それほどの所なら穀類野菜ともに、もっとよくできなければならないはずだと思ったが、馬鹿気《ばかげ》ているから議論もしなかった。橋本もこれは伝説だよと断った。伝説と云えば日本武尊《やまとだけのみこと》の東夷征伐と同種類に属すべきもので、真偽以外に、重く取扱わねばならぬ筋の来歴を有しているに違いない。いかにも汚《きた》ない国民である。
 湯を立てて貰って這入《はい》って見ると、濁っている。別に黄色く濁っている訳ではないが、御茶の味から演繹《えんえき》すればやっぱり酸《す》っぱい湯に浸《つか》っているとよりほかに考えようがない。鹹水《しおみず》にも溶《と》けるとか云って大連でくれた豆石鹸《まめシャボン》でも、行李《こうり》の底から出せばよかったと思った。風呂場も風呂|桶《おけ》も小さいものである。その上下女が出て来て背中を流してくれる。窮屈に身体を曲げながら、御前は日本人だろう。日本はどこの生れだいなどと話をした。この下女は始めて宿へ着いた時、余を橋本の随行と間違えて、そら何とかさんもいっしょにいらしったと云った。その何とかさんは橋本が蒙古《もうこ》へ行くとき、彼と同じくここへ泊った事があるのだそうだ。顔が似ているから間違えたのか、様子が御供らしいから間違えたのかは、つい聞き糺《ただ》して見なかった。窓の外に大きな甕《かめ》が埋《い》けてある。我々の汗や垢《あか》が例の酸っぱい水といっしょになって、朝に晩に流れ込んでいるのだから、時々|汲《く》み出さなければ溢《あふ》れるほど溜ってしまう。それを支那の下男が石油缶へ移して天秤棒《てんびんぼう》で担《かつ》いで、どこかへ持って行く。風呂に浸《つか》りながら、どこへ持って行くんだろうなと考えた。余計な心配のようだが余はこの汚水が結局どう片づけられるかの処置を想像して見て、少しく恐ろしくなった。
 これでいて御馳走《ごちそう》がむやみに出る。胃の悪い余のごときものは、御膳《おぜん》の上を眺めただけで、腹がいっぱいになってしまう。夜は緞子《どんす》の夜具に寝かしてくれる。店の方では電話が仕切なしにちりんちりんと鳴っている。品《ひん》の好《い》い御神《おかみ》さんが、はあもしもしを乃別《のべつ》に繰返す。或る時チョコレートの菓子が食いたくなったから、下女に有るかいと聞いて見ると、すぐもしもしで取り寄せてくれた。のみならず満鉄公所へ御馳走を受けに行けば、三鞭《シャンパン》が現れる。領事館へ挨拶に行けば、英吉利《イギリス》の王様の写真などが恭々《うやうや》しく飾ってあって、まるで倫敦《ロンドン》のような気持になる。そうかと思うと、宿の座敷の廊下の向うが白壁で、高い窓から光線が横に這入《はい》って来るのは仕方がないが、その窓に嵌《は》めてある障子《しょうじ》は、北斎《ほくさい》の画《か》いた絵入の三国志《さんごくし》に出てくるような唐《から》めいたものである。しかもあまり綺麗《きれい》ではない。その上|室《へや》の中が妙な臭《におい》を放つ。支那人が執拗《しゅうね》く置《お》き去《ざり》にして行った臭だから、いくら綺麗好きの日本人が掃除をしたって、依然として臭い。宿では近々《きんきん》停車場《ステーション》附近へ新築をして引移るつもりだと云っていた。そうしたら、この臭だけは落ちるだろう。しかし酸っぱい御茶は奉天のあらん限り人畜に祟《たた》るものと覚悟しなければならない。

        四十八

 黒い柱が二本立っている。扉も黒く塗ってある。鋲《びょう》は飯茶碗を伏せたように大きく見える。支那町の真中にこんな大名屋敷に似た門があろうとは思いがけなかった。門を這入《はい》るとまた門がある。これは支那流にできていた。それを通り越すと幅一間ほどの三和土《たたき》が真直《まっすぐ》に正面まで通っている。もっとも左右共に家続きであるから、四角な箱の中をがらん胴《どう》にして、その屋根のない真中を、三和土《た
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