思議な事に、黒くなって集った支那人はいずれも口も利《き》かずに老人の創《きず》を眺めている。動きもしないから至って静かなものである。なお感じたのは、地面の上に手を後《うしろ》へ突いて、創口《きずぐち》をみんなの前に曝《さら》している老人の顔に、何らの表情もない事であった。痛みも刻まれていない。苦しみも現れていない。と云って、別に平然ともしていない。気がついたのは、ただその眼である。老人は曇《どん》よりと地面の上を見ていた。
馬車に引かれたのだそうですと案内が云った。医者はいないのかな、早く呼んでやったらいいだろうにと間接ながら窘《たし》なめたら、ええ今にどうかするでしょうという答である。この時案内はもう本来の気分を回復していたと見える。鞭《むち》の影は間もなくまた閃《ひら》めいた。埃《ほこり》だらけの御者《ぎょしゃ》は人にも車にも往来にも遠慮なく、滅法無頼《めっぽうぶらい》に馬を追った。帽も着物も黄色な粉《こ》を浴びて、宿の玄関へ下りた時は、ようやく残酷な支那人と縁を切ったような心持がして嬉《うれ》しかった。
四十六
支那の古家《ふるいえ》をそのまま使ってるから、御寺の本堂を客間に仕切ったと同じようである。釣り廊下を渡って正面の座敷を覗《のぞ》くと、骨董《こっとう》がいっぱい並べてあったので、何事かと思ったら、北京《ペキン》へ買出しに行った道具屋が、帰り途にここで逗留《とうりゅう》中の見世《みせ》を張ったのだと分ったから、冷し半分|這入《はい》って見ているうちに、時間が来たので、外へ出た。今度は車だから好かろうと安心して、ちょっとハイカラに膝頭《ひざがしら》を重ねて反《そ》り返《かえ》って見たが、やはりけっして無難ではない。人力は日本人の発明したものであるけれども、引子《ひきこ》が支那人もしくは朝鮮人である間はけっして油断してはいけない。彼等はどうせ他《ひと》の拵《こしら》えたものだという料簡《りょうけん》で、毫《ごう》も人力に対して尊敬を払わない引き方をする。海城《かいじょう》というところで高麗《こま》の古跡《こせき》を見に行った時なぞは、尻が蒲団《ふとん》の上に落ちつく暇がないほど揺れた。一尺ばかり跳《は》ね上げられる事は、一丁の間に一度は必ずあった。しまいに朝鮮人の頭をこきんと張つけてやりたくなったくらい残酷に取扱われた。奉天の道路は海城ほど凸凹《でこぼこ》にでき上っていないから、むやみに車の上で踊をおどる苦痛はないが、その引き方のいかにも無技巧で、ただ見境《みさかい》なく走《か》けさえすれば車夫の能事畢《のうじおわ》ると心得ている点に至っては、全く朝鮮流である。余は車に揺られながら、乗客《じょうかく》の神経に相応の注意を払わない車夫は、いかによく走《か》けたって、ついに成功しない車夫だと考えた。
そのうち大きな門の下へ出た。奉天へ前後四泊した間に、この門を何度となく潜《くぐ》った覚《おぼえ》がある。その名前も幾度《いくたび》となく耳にした。ところがそれを忘れてしまった。その恰好《かっこう》もはなはだ曖昧《あいまい》に頭に映るだけである。しかし奉天の市街《まち》に入《い》って始めて埃《ほこり》だらけの屋根の上に、高くこの門を見上げた時は、はあと思った。その時の印象はいまだに消えない。橋本といっしょにこの門の傍《そば》にある小さな店に筆と墨を買いに行った折の事も、寂《さ》びた経験の一つとしてよく覚えている。その時橋本は敷居を跨《また》いで、中へ這入《はい》った。余も橋本に続こうとして身体を半分|廂《ひさし》から奥へ差し込んだが、支那の家に固有な一種の臭《におい》が、たちまち鼻に感じたので、一二歩往来の方へ出て佇《たたず》んでいた。今云う門は十間ばかり先の四辻《よつつじ》にあるので、余は鳥打帽の廂に高い角度を与えてわざわざ仰《あお》むいて見た。時刻は暮に近い頃だったから、日の色は瓦《かわら》にも棟《むね》にも射さないで、眩《まぼ》しい局部もなく、総体が粛然《しゅくぜん》と喧《かま》びすしい十字の街《まち》の上に超越していた。この門は色としては、古い心持を起す以外に、特別な采《あや》をいっこう具えていなかった。木も瓦も土もほぼ一色《ひといろ》に映る中に、風鈴《ふうりん》だけが器用に緑を吹いていただけである。瓦の崩《くず》れた間から長い草が見えた。廂の暗い影を掠《かす》めて白い鳩が二羽飛んだ。余は久しぶりに漢詩というものが作りたくなった。待っている間少し工夫して見たが、一句も纏《まと》まらないうちに、橋本が筆と墨を抱《かか》えて出て来たので興趣《きょうしゅ》は破れてしまった。
このほかにこの門から得た経験は、暗い穴倉のなかで、車に突き当りはしまいかと云う心配と、煉瓦《れんが》に封じ込められた塵埃《ちり
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