こうじ》の左右は煉瓦《れんが》の塀《へい》で、ちょっと見ると屋敷町のように人通りが少い。それを二十間ほど来て左手の門を這入《はい》った。ただ偶然に這入ったのだから、家の名も主人《あるじ》の名も知るはずがない。今から考えると、小路のうちには同じような家が何軒となく並んでいて、同じような門がまたいくつでも開《あ》いているのだから、とくにここだけを覗《のぞ》くべき誘致《インデュースメント》は少しもなかったのである。余はただ案内者の後《あと》に跟《つ》いて何の気なしに這入った。その案内者もまた好い加減に這入った。案内者は青林館《せいりんかん》と云う宿の主人である。かつて二葉亭《ふたばてい》といっしょに北の方を旅行して、露西亜人《ロシアじん》に苛《ひど》い目に逢《あ》ったと話した。
門を這入ると、右も室《へや》、突き当りも室である。左りも隣の壁に隔てられなければ室であるべきはずなのだから、中の一筋だけが頭の上に空を仰ぐ訳になる。そこに立って右手の部屋を覗くと、狭い路次《ろじ》から浅草の仲店《なかみせ》を看《み》るような趣《おもむき》がある。実際仲店よりも低く小さい部屋であった。その一番目には幕が垂れていて、中は判然《はっきり》と分らなかったが、次を覗いて見る段になって驚いた。二畳敷ぐらいの土間の後《うしろ》の方を、上《あが》り框《がまち》のように、腰をかけるだけの高さに仕切って、そこに若い女が三人いた。三人共腰をかけるでもなく、寝転ぶでもなく、互に靠《もた》れ合って身体《からだ》を支えるごとくに、後の壁をいっぱいにした。三人の着物が隙間《すきま》なく重なって、柔かい絹をしなやかに圧《お》しつけるので、少し誇張して形容すると、三人が一枚の上衣を引き廻しているように見える。その間から小さな繻子《しゅす》の靴が出ていた。
三人の身体が並んでいる通り、三人の顔も並んでいた。その左右が比較的尋常なのに引きかえて、真中のは不思議に美しかった。色が白いので、眉《まゆ》がいかにも判然していた。眼も朗《ほがら》かであった。頬から顎《あご》を包む弧線《こせん》は春のように軟《やわらか》かった。余が驚きながら、見惚《みと》れているので、女は眼を反《そ》らして、空《くう》を見た。余が立っている間、三人は少しも口を利《き》かなかった。
青林館の主人は自分ほどこの女に興味がなかったと見えて、好加減《いいかげん》に歩を移して、突き当りの部屋に這入った。そこも狭い土間で、中央には普通の卓上《テーブル》が据《す》えてあった。それを囲んで三人の男が食事をしている。皿小鉢《さらこばち》から箸《はし》茶碗《ちゃわん》に至るまで汚《きた》ない事はなはだしい。卓に着いている男に至ってはなおさら汚なかった。まるで大連の埠頭《ふとう》で見る苦力《クーリー》と同様である。余はこの体裁《ていさい》を一見するや否や、台所で下男が飯《めし》を掻《か》き込んでるんじゃなかろうかと考えた。ところがつい隣の室でしきりに音楽をやっている。今見た美人のいる所とはつい三間とは離れていない。実に矛盾な感じである。
余は二歩ばかり洋卓《テーブル》を遠退《とおの》いて、次の室の入口を覗いて見た。そうしてまた驚いた。向《むこう》の壁に倚添《よりそ》えて一脚の机を置いて、その右に一人の男が腰をかけている。その左に女が三人立っている。その前には十二三の少女が男の方を向いて立《たっ》ている。少し離れて室《へや》の入口には盲目《めくら》が床几《しょうぎ》に腰をかけている。調子の高い胡弓《こきゅう》と歌の声はこの一団から出るのである。歌の意味も節も分らない余の耳にはこの音楽が一種異様に凄《すさま》じい響を伝えた。机の右にいる男が、右の手に筮竹《ぜいちく》のような物を持って、時々机の上を敲《たた》くと同時に左の掌《てのひら》に八橋《やつはし》と云う菓子に似た竹の片《きれ》を二つ入れて、それをかちかちと打合せながら、歌の調子を取る。趣向はスペインの女の用いるカスタネットに似ているが、その男の顔を見ると、アルハンブラの昔を思い出すどころではない。蒼黒《あおぐろ》く土気《つちけ》づいた色を、一心不乱に少女の頭の上に乗《の》しかけるように翳《かざ》して、腸《はらわた》を絞《しぼ》るほど恐ろしい声を出す。少女はまた瞬《またた》きもせず、この男の方を見つめて、細い咽喉《のど》を合している。それが怖《こわ》い魔物に魅入《みい》られて身動きのできない様子としか受取れない。盲目は彼の眼の暗いごとく、暗い顔をして、悲しい陰気な、しかも高い調子の胡弓を擦《す》り続《つづ》けに擦っている。左の方に立っている女の一人が余を見た。それが忌《い》むべき藪睨《やぶにらみ》であった。日の目の乏しくって暮やすい室のうちで、この怪しい団体はこの怪しい音
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