楽を奏して夢中である。余は案内の袖《そで》を引いてすぐ外へ出た。

        四十

 橋本は遠い所へ豚を見に行った。何でも市街《まち》から一里余もあるとか云う話である。こんな痛い腹を抱《かか》えて今更豚でもあるまいと思って止《や》めた。その代りにそこいらをぶらつくべく主人《あるじ》といっしょに馬車で出た。主人がまあ遼河《りょうが》を御覧なさいと云う。馬車を乗り棄《す》てて河岸《かし》へ出ると眼いっぱいに見えた。色は出水《でみず》の後《あと》の大川に似ている。灰のように動くものが、空を呑《の》む勢《いきおい》で遠くから流れて来る。哈爾賓《ハルピン》に行く途中で、木戸さんに聞いた話だが、満洲の黄土はその昔中央|亜細亜《アジア》の方から風の力で吹き寄せたもので、それを年々河の流れが御叮嚀《ごていねい》に海へ押出しているのだそうである。地質学者の計算によると、五万年の後《のち》には今の渤海湾《ぼっかいわん》が全く埋《うま》ってしまう都合になっていますと木戸君が語られた。河辺《かわべ》に立って岸と岸との間を眺めていると、水の量が泥の量より少いくらい濁ったものが際限なく押し寄せて来る。五万年は愚《おろ》か、一二カ月で河口はすっかり塞《ふさ》がってしまいそうである。それでも三千|噸《トン》ぐらいな汽船は苦《く》もなくのそのそ上《のぼ》って来ると云うんだから支那の河は無神経である。人間に至っては固《もと》より無神経で、古来からこの泥水を飲んで、悠然《ゆうぜん》と子を生んで今日《こんにち》まで栄えている。
 サンパンと云う船がここかしこに浮かんで形《なり》に合しては大き過ぎるぐらいな帆《ほ》を上げている。帆の裏には細い竹を何本となく横に渡してあるから、帆に角《かど》が立つのみか、捲《ま》き上《あ》げる時にはがらがら鳴る。日本では見られない絵である。その間を横切って向岸《むこうぎし》へ着いた。向岸には何にもない。ただ停車場《ステーション》が一つある。北京《ペキン》への急行が出るとか云うので、客がたくさん列車に乗り込んでいる。下等室を覗《のぞ》いたら、腰かけも何もない平土間《ひらどま》に、みんなごろごろ寝ころんでいた。帰りにはサンパンに乗って、泥の流《ながれ》を押し渡った。風が出ると難儀だそうである。春の初めには山のような氷が流れてくる。先が見えないので、氷と氷の間に挟《はさ》まれると命を取られる。ある時氷に路を塞《ふさ》がれて仕方がないから、船を棄《す》てて氷の上へ上《あが》って、乗り捨てた船を引《ひ》き摺《ず》って向う側へ出て、ようやくまた船に乗ったと云う話がある。これは主人《あるじ》の実歴談《じつれきだん》である。
 サンパンは妙なところへ着いた。岸は芦《あし》を畳んでできている。石垣ではなくて芦垣《あしがき》である。こうしなければ水の力で浚《さら》われる恐れがあると云う。芦はいくらでも水を吸い込んで平気でいるから無難だと見える。細い小路《こうじ》を突き抜けると、支那町の真中へ出た。妙な臭《におい》がする。先刻《さっき》から胸が痛むのでポッケットから、粉薬《こぐすり》を出して飲もうとするがあいにく水がない。一滴の飲料も用いずに散薬を呑《の》み下《くだ》す方法は、その後《ご》苦《くる》し紛《まぎ》れに発見した分別《ふんべつ》だが、この時はまだそれほど老練な患者でないので、拝むように主人を煩《わずら》わした。主人はええ訳はありませんと云いつつも、ずいぶん烈《はげ》しく引張り廻した上、ほとんど苦しくって道傍《みちばた》に竦《すく》みそうになった頃、ようやく一軒の店へ這入《はい》った。盆栽《ぼんさい》などの据《す》えてある中庭を通り抜けて角《かど》の一部屋へ案内されたが、水はなかなか出る様子がない。そのうち、こちらへと云ってまた二階へ招《しょう》ぜられた。虫のように段々を上《あが》って廊下から室《へや》へ這入ると、日本人が二三人事務を執《と》っている。さあどうぞと椅子を与えられたので、挨拶《あいさつ》をして始めて解ったが、水を貰いに飛び込んだところは日清豆粕会社《にっしんまめかすかいしゃ》で、さあどうぞと迎えてくれたのは、社員の倉田君である。倉田君は固《もと》より日本から漫遊《まんゆう》もしくは視察の目的をもってわざわざ営口《えいこう》までやって来たものと余を信じている。服薬のために通りがかりのついでながら、日清豆粕会社の奥二階へ水を貰いに立ち寄ったと判じようはずがない。そこで水は容易に出ない。湯も出ない。今御茶を上げると云って、ボイがしきりに支度《したく》をしている。余は青林館の主人が恨《うら》めしくなった。けれども倉田君に対しては相応に体裁《ていさい》を具えた応対をしなければならない。豆が汽車で大連へ出るようになってから、河を下ってくる豆
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