に騾馬の講義を聞くと、まず騾と※[#「馬+夬」、第4水準2−92−81]※[#「馬+是」、第4水準2−92−94]《けってい》の区別から始めるので、真率《しんそつ》な頭脳をただいたずらに混乱させるばかりだから、黙って鞍《くら》のない裸姿を眺めていた。騾馬は首を伏せてしきりに短い草を食っていた。
 門の突き当りがいわゆる客間であるが、観音扉《かんのんびらき》を左右に開けて這入るところなぞは御寺に似ている。中は汚《きた》ないものであった。客でも招待するときには、臨時に掃除をするのかと聞いたら、そうだと答えていた。主人に挨拶《あいさつ》をしてまた松山を抜けたら、松の間に牛が放してあった。駅長が行く行く初茸《はつだけ》を取った。どこから目付《めつ》け出すか不思議なくらい目付け出した。橋本も余も面白半分少し探して見たが、全く駄目であった。山を下《くだ》るとき、おい満洲を汽車で通ると、はなはだ不毛《ふもう》の地のようであるが、こうして高い所に登って見ると、沃野《よくや》千里という感があるねと、橋本に話しかけたが、橋本にはそんな感がなかったと見えて、別に要領の好い返事をしなかった。余の沃野千里は全く色から割り出した感じであった。松山の上から見渡すと、高い日に映る、茶色や黄色が、縞《しま》になったり、段になったり、模様になったり、霞《かすみ》で薄くされて、雲に接《つづ》くまで、一面に平野を蔽《おお》うている。満洲は大きな所であった。
 宿へ帰ったら、御神《おかみ》さんが駅長の贈って来た初茸を汁《つゆ》にして、晩に御膳《おぜん》の上へ乗せてくれた。それを食って、梨畑や、馬賊や、土の櫓や、赤い旗の話しなぞをして寝た。

        三十七

 立つ用意をしているところへ御神さんが帳面を持って出て来た。これへ何か書いて行って下さいと云う。御神さんは余を二つ接《つ》ぎ合《あわ》せたように肥えている。それで病気だそうだ。始めはどこのものだか分らなかったが、御神さんと知って、調子の下女と違っているのに驚いた。御神さんはその体格の示すごとき好い女であった。どうしてあんなすれっからしの下女を使いこなすかが疑問になったくらいである。帳面を前へ置いて、どうぞと手を膝《ひざ》の上に重ねた。その膝の厚さは八寸ぐらいある。
 帳面を開けると、第一|頁《ページ》に林学博士のH君が「本邦《ほんぽう》の山水《さんすい》に似たり」と揮《ふる》ってしまったあとである。その次にはどこどこ聯隊長《れんたいちょう》何のなにがしと書いてある。宿帳だか、書画帖《しょがちょう》だか判然しないものの、第三頁に記念を遺《のこ》す事に差《さ》し逼《せま》って来た。橋本は帳面を見るや否や、向《むこう》を向いて澄ましている。余は仕方がないから、書くには書くが、少し待ってくれと頼んだ。すると御神《おかみ》さんが、そうおっしゃらずに、どうぞどうぞと二遍も繰返して御辞儀をする。無論|嘘《うそ》を吐《つ》く気は始めからないのだが、こう拝むようにされて書いてやるほどの名筆でもあるまいと思うと、困却《こんきゃく》と慚愧《ざんき》でほとほと持て余してしまう。時に橋本が例のごとく口を利《き》いてくれた。この人は嘘を云う男じゃないから、大丈夫ですよ今に何か書きますよと笑っている。余はまた世間話をしながら、その間に発句《ほっく》でも考え出さなければならなくなった。
 同情してくれる人はだいぶあると思うから白状するが、旅をして悪筆を懇望《こんもう》されるほど厄介《やっかい》な事はない。それも句作に熱心で壁柱《かべはしら》へでも書き散らしかねぬ時代ならとにかく、書く材料の払底《ふってい》になった今頃、何か記念のためにと、短冊《たんじゃく》でも出された日には、節季《せっき》に無心を申し込まれるよりも苛《つら》い。大連を立つとき、手荷物を悉皆《しっかい》革鞄《かばん》の中へ詰め込んでしまって、さあ大丈夫だと立ち上った時、ふと気がついて見ると、化粧台の鏡の下に、細長い紙包があった。不思議に思って、折目を返して中を改めると、短冊である。いつ誰が持って来て載せたものか分らないが、その意味はたいてい推察ができる。俳句を書かせようと思って来たところが、あいにく留守《るす》なので、また出直して頼む気になって、わざと短冊だけ置いて行ったに違ない。余はこの時化粧台から紙包を取りおろして、革鞄の中へ押し込んで、ホテルを出た。この短冊はいまだに誰のものか分らない。数は五六枚で雲形《くもがた》の洒落《しゃれ》たものであったが、朝鮮へ来て、句を懇望されるたびに、それへ書いてやってしまったから今では一枚も残っていない。長春の宿屋でも御神さんに捕《つら》まった。この御神さんは浜のものだとか云って、意気な言葉使いをしていたが、新しい折手本《おりでほん》
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