を降りて梨畠へ行こうとしたが、正門から這入《はい》るのが面倒なので、どうです土堤《どて》を乗り越そうじゃありませんかと案内が云い出した。余はすぐ賛成して蒲鉾形《かまぼこがた》の土塀《どべい》を向側《むこうがわ》へ馳《は》せ下《お》りた。胃は実に痛かった。樹《き》の下を潜《くぐ》って二十間も来ると、向うの方に橋本始め連中が床几《しょうぎ》に腰をかけて梨を食っている。腕に金筋《きんすじ》を入れた駅長までいっしょである。余も同勢に交《まじ》って一つ二つ食った。これは胃の中に何か入れると、一時痛みが止むからである。そうしてまた畠の中をぐるぐる歩き出した。ここの梨はまるで林檎《りんご》のように赤い色をしている。大きさは日本の梨の半分もない。しかし小さいだけあって、鈴なりに枝を撓《しな》わして、累々《るいるい》とぶら下っているところがいかにもみごとに見える。主人がその中《うち》で一番|旨《うま》い奴《やつ》を――何と云ったか名は思い出せないが、下男に云いつけて、笊《ざる》に一杯取り出さして、みんなに御馳走《ごちそう》した。主人は背の高い大きな男で、支那人らしく落ちつきはらって立っている。案内の話では二千万とか二億万とかの財産家だそうだが、それは嘘《うそ》だろう。脂《やに》の強い亜米利加煙草《アメリカたばこ》を吹かしていた。
梨にも喰《く》い飽《あ》きた頃、橋本が通訳の大重君に、いろいろ御世話になってありがたいから、御礼のため梨を三十銭ほど買って帰りたいと云うような事を話してくれと頼んでいる。それを大重君がすこぶる厳粛な顔で支那語に訳していると、主人は中途で笑い出した。三十銭ぐらいなら上げるから持って御帰りなさいと云うんだそうである。橋本はじゃ貰って行こうとも云わず、また三十銭を三十円に改めようともしなかった。宿へ帰ったら、下女がある御客さんといっしょに梨畠へ行って、梨を七円ほど御土産《おみやげ》に買って帰った話をして聞かせた。その時橋本は、うんそうか、おれはまた三十銭がた買って来ようと思ったら、三十銭ぐらいなら進上《しんじょう》すると云ったよと澄ましていた。
三十六
壁と云うと鏝《こて》の力で塗り固めたような心持がするが、この壁は普通の泥《どろ》が天日《てんぴ》で干上《ひあが》ったものである。ただ大地と直角《ちょっかく》にでき上っている所だけが泥でなくって壁に似ている。その上部には西洋の御城のように、形儀《ぎょうぎ》よく四角な孔《あな》をいくつも開けて、一ぱし櫓《やぐら》の体裁《ていさい》を示している。しかし一番人の注意を惹《ひ》くのは、この孔から見える赤い旗である。旗の数は孔の数だけあって、孔の数は一つや二つではないから、ちょっと賑《にぎや》かに思われる。始めてこの景色《けしき》が眼に触れた時には、村のお祭りで、若いものが、面白半分に作り物でも拵《こしら》えたのじゃなかろうかと推測した。ところがこの櫓は馬賊の来襲に備えるために、梨畑《なしばたけ》の主人が、わざわざ家の四隅《よすみ》に打ち建てたのだと聞いて、半分は驚いたが、半分はおかしかった。ただなぜあんな赤い旗を孔の間から一つずつ出しているかが、さっぱり分らなかった。裏側へ廻って、段々を上《のぼ》って見て、始めてこの赤旗の一つが一挺の鉄砲を代表している事を知った。鉄砲は博物館にでもありそうな古風な大きいもので、どれもこれも錆《さび》を吹いていた。弾丸《たま》を込めても恐らく筒《つつ》から先へ出る気遣《きづかい》はあるまいと思われるほど、安全に立てかけられていた。もっとも赤い旗だけは丁寧《ていねい》に括《くく》りつけてある。そうしてちょうど壁孔《かべあな》から外に見えるくらいな所にぶら下げてある。番兵は汚《きた》ない顔を揃《そろ》えて、後《うしろ》の小屋の中にごろごろしていた。馬賊の来襲に備えるために雇われたればこそ番兵だが、その実は、日当三四十銭の苦力《クーリー》である。櫓《やぐら》を下りて門を出る前に、家の内部を観《み》る訳に行くまいかと通訳をもって頼んだら、主人はかぶりを振って聞かなかった。女のいる所は見せる訳に行かないと云うんだそうである。その代り客間へ案内してやろうと番頭を一人つけてくれた。その客間というのは往来を隔てて向う側にある一軒建の家であった。外には大きな柳が、静な葉を細長く空に曳《ひ》いていた。長屋門《ながやもん》を這入《はい》ると鼠色《ねずみいろ》の騾馬《らば》が木の株に繋《つな》いである。余はこの騾馬を見るや否や、三国志《さんごくし》を思い出した。何だか玄徳《げんとく》の乗った馬に似ている。全体騾馬というのを満洲へ来て始めて見たが、腹が太くって、背が低くって、総体が丸く逞《たくま》しくって、万事《ばんじ》邪気のないような好い動物である。橋本
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