見極《みき》わめる事ができないうちに病人は退院してしまったのである。そのうち自分も退院した。そうして、かの音に対する好奇の念はそれぎり消えてしまった。

    下

 三カ月ばかりして自分はまた同じ病院に入った。室《へや》は前のと番号が一つ違うだけで、つまりその西隣であった。壁|一重《ひとえ》隔《へだ》てた昔の住居《すまい》には誰がいるのだろうと思って注意して見ると、終日かたりと云う音もしない。空《あ》いていたのである。もう一つ先がすなわち例の異様の音の出た所であるが、ここには今誰がいるのだか分らなかった。自分はその後《のち》受けた身体《からだ》の変化のあまり劇《はげ》しいのと、その劇しさが頭に映って、この間からの過去の影に与えられた動揺が、絶えず現在に向って波紋を伝えるのとで、山葵《わさび》おろしの事などはとんと思い出す暇もなかった。それよりはむしろ自分に近い運命を持った在院の患者の経過の方が気にかかった。看護婦に一等の病人は何人いるのかと聞くと、三人だけだと答えた。重いのかと聞くと重そうですと云う。それから一日二日して自分はその三人の病症を看護婦から確《たしか》めた。一人は食道癌
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