機会なく過ぎた。病人は静かな男であったが、折々|夜半《よなか》に看護婦を小さい声で起していた。看護婦がまた殊勝《しゅしょう》な女で小さい声で一度か二度呼ばれると快よい優《やさ》しい「はい」と云う受け答えをして、すぐ起きた。そうして患者のために何かしている様子であった。
 ある日回診の番が隣へ廻ってきたとき、いつもよりはだいぶ手間がかかると思っていると、やがて低い話し声が聞え出した。それが二三人で持ち合ってなかなか捗取《はかど》らないような湿《しめ》り気《け》を帯びていた。やがて医者の声で、どうせ、そう急には御癒《おなお》りにはなりますまいからと云った言葉だけが判然《はっきり》聞えた。それから二三日して、かの患者の室にこそこそ出入《ではい》りする人の気色《けしき》がしたが、いずれも己《おの》れの活動する立居《たちい》を病人に遠慮するように、ひそやかにふるまっていたと思ったら、病人自身も影のごとくいつの間にかどこかへ行ってしまった。そうしてその後《あと》へはすぐ翌《あく》る日から新しい患者が入って、入口の柱に白く名前を書いた黒塗の札が懸易《かけか》えられた。例のごしごし云う妙な音はとうとう
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