飯の間はたいてい机に向って筆を握っていた。静かな時は自分で紙の上を走るペンの音を聞く事ができた。伽藍《がらん》のような書斎へは誰も這入《はい》って来ない習慣であった。筆の音に淋《さび》しさと云う意味を感じた朝も昼も晩もあった。しかし時々はこの筆の音がぴたりとやむ、またやめねばならぬ、折もだいぶあった。その時は指の股《また》に筆を挟《はさ》んだまま手の平《ひら》へ顎《あご》を載せて硝子越《ガラスごし》に吹き荒れた庭を眺めるのが癖《くせ》であった。それが済むと載せた顎を一応|撮《つま》んで見る。それでも筆と紙がいっしょにならない時は、撮んだ顎を二本の指で伸《の》して見る。すると縁側《えんがわ》で文鳥がたちまち千代《ちよ》千代と二声鳴いた。
 筆を擱《お》いて、そっと出て見ると、文鳥は自分の方を向いたまま、留《とま》り木《ぎ》の上から、のめりそうに白い胸を突き出して、高く千代と云った。三重吉が聞いたらさぞ喜ぶだろうと思うほどな美《い》い声で千代と云った。三重吉は今に馴《な》れると千代と鳴きますよ、きっと鳴きますよ、と受合って帰って行った。
 自分はまた籠の傍《そば》へしゃがんだ。文鳥は膨《ふ
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