ずの報酬を、強《し》いて個人の頭上《ずじょう》に落さんとするは、殆んど悪意ある取捨《しゅしゃ》と一般の行為だからである。
好悪《こうお》は人々の随意である。好悪より生ずる物品金銭の贈与もまた人々の随意である。英国の王家が月桂詩人の称号をスウィンバーンに与えないで、オースチンに年々二、三百|磅《ポンド》の恩給を贈るのは、単に王家がこの詩人に対する好悪の表現と見ればそれまでである。けれども国家の与うべき報酬は、一銭一厘たりとも好悪によって支配さるべきではない。必ず優劣によって決せらるべきである。しかもその優劣が判然《はっきり》と公衆の眼に映らなければならない。この必要条件を具備しない国家的保護と奨励とはなきに優《まさ》ると寛仮《かんか》するよりも、むしろあるに劣る(もしそういう言葉が意味をなすならば)と非難する方が当然である。
作物《さくぶつ》の現状と文士の窮状とは既に上説の如くであって、ここに保護のために使用すべき金が若干でもあるとすれば、それを分配すべき比較的|無難《ぶなん》な方法はただ一つあるだけである。余は毎月刊行の雑誌に掲載される凡《すべ》ての小説とはいわないつもりであるが、
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