《きた》します。思想が同じいのにこれほどな相違が出るのは全く技巧のためだと結論します。近頃日本の文学者のある人々は技巧は無用だとしきりに主張するそうですが、いまだ明暸《めいりょう》なる御考えを承《うけたまわ》った事がないから、何とも申されませんが、以上の説明によると、文芸家である以上は、技巧はどうしても捨てる訳には、参るまいと信じます。そうして以上の説明はけっして論理その他の誤謬《ごびゅう》を含んでおらんと信じます。有名な人の作曲さえやれば、どんな下手が奏しても構わないと云う御主意ならば文章も技巧は無用かも知れませんが、私にはそうは思われません。そうして技巧を無用視せらるる方《かた》のうちには人生に触れなくては駄目だ、技巧はどうでもよい、人生に触れるのが目的だと言われる人が大分あるようですが、これもまだ明暸な説明を承った事がないから何の意味だか了解できませんが、この言葉を承わるたびに何だか妙な心持がします。ただ触れろ触れろと仰《おおせ》があっても、触れる見当《けんとう》がつかなければ、作家は途方に暮れます。むやみに人生だ人生だと騒いでも、何が人生だか御説明にならん以上は、火の見えないのに半鐘を擦《す》るようなもので、ちょっと景気はいいようだが、どいたどいたと駆《か》けて行く連中は、あとから大に迷惑致すだろうと察せられます。人生に触れろと御注文が出る前に、人生とはこんなもの、触れるとはあんなもの、すべてのあんな、こんなを明暸にしておいてさてかような訳だから技巧は無用じゃないかと仰せられたなら、その時始めて御相手を致しても遅くはなかろうと思って、それまでは差し控える事に致しております。もし私の方で申す人生に触れるという意味が御承知になりたければ今じきに明暸なる御答えを仕《つかまつ》ってもよろしいが、ついでもある事だから、次の節まで待っていただきましょう。
 御待遠だといかぬから、すぐさま次の節に移って弁じます。文学者の一部分で、しきりに触れろ触れろと云い、技巧は無用だ無用だと云っているに反して、画家の方では――画家は我々のように騒々しくない、おとなしく勉強しておられるから、むやみに三《み》つ番《ばん》は敲《たた》かれぬようであるが――しかしその実行しておられるところを拝見すると、触れるの触れぬのと云う事は頓着《とんじゃく》なくただ熱心に技術を研《みが》いておられるように見受けます。申すまでもなく私は極《きわ》めて画道には暗い人間であります。だから画の事に関して嘴《くちばし》を容《い》れる権利は無論ないのですが、門外漢の云う事も時には御参考になるだろうし、こうして諸君に御目にかかる機会も滅多《めった》にありませず、かつ文芸全体に通じての議論ですから、大胆なところを述べてしまいます。――あなた方の方では人間を御かきになるときはモデルを御使いになります、草や木を御かきになるときは野外もしくは室内で写生をなさいます。これはまことに結構な事で、我々文学者が四畳半のなかで、夢のような不都合な人物、景色、事件を想像して好加減《いいかげん》な事を並べて平気でいるよりも遥《はるか》に熱心な御研究であります。その効能は固《もと》より御承知の事で、私などがかれこれ申すのも釈迦《しゃか》に何とかいう類《たぐい》になりますが、まず講話の順序として分らぬながら、分ったと思う事だけを述べます。こう云う修業で得る点は私の考えではまず二通りになるだろうと思います。一つは物の大小形状及びその色合などについて知覚が明暸《めいりょう》になりますのと、この明暸になったものを、精細に写し出す事が巧者にかつ迅速《じんそく》にできる事だと信じます。二はこれを描《えが》き出すに当って使用する線及び点が、描き出される物の形状や色合とは比較的独立して、それ自身において、一種の手際《てぎわ》を帯びて来る事であります。この第二の技術は技術でありかつ理想をもあらわしているからして純然たる技巧と見る訳には参りません。現に日本在来の絵画はおもにこの技巧だけで価値を保ったものであります。それにも関わらず、これに対して鑑賞の眼を恣《ほしいまま》にすると、それぞれに一種の理想をあらわしている、すなわち画家の人格を示している、ために大なる感興を引く事が多いのであります。たとえば一線の引き方でも、(その一線だけでは画は成立せぬにも関わらず)勢いがあって画家の意志に対する理想を示す事もできますし、曲り具合が美に対する理想をあらわす事もできますし、または明暸で太い細いの関係が明かで知的な意味も含んでおりましょうし、あるいは婉約《えんやく》の情、温厚な感を蓄える事もありましょう。(知、情の理想が比較的顕著でないのは性質上やむをえません)こうなると線と点だけが理想を含むようになります。ちょうど金石文字や法帖《ほうじょう》と同じ事で、書を見ると人格がわかるなどと云う議論は全くこれから出るのであろうと考えられます。だから、この技巧はある程度の修養につれて、理想を含蓄して参ります。しかし前種の技巧、すなわち物に対する明暸なる知覚をそのままにあらわす手際《てぎわ》は、全然理想と没交渉と云う訳には参りませんが、比較的にこれとは独立したものであります。これをわかりやすく申しますと、物をかいて、現物のように出来上っても、知、情、意、の働きのあらわれておらんのがあります。何《なん》だか気乗りのしないのがあります。どことなく機械的なのがあります。私の技巧と云うのは、この種の技巧を云うのであります。私の非難したいのは、この種の技巧だけで画工になろうと云う希望を抱く人々であります。無論諸君は、画工になるにはこの種の技巧だけで充分だと御考えになってはおられますまい。しかし技巧をおもにして研究を重ねて行かれるうちには、時によると知らぬ間に、ついこの弊《へい》に陥る事がないとは限らんと思います。再び前段に立ち帰って根本的に申しますと、前に述べた通り、文芸は感覚的な或物を通じて、ある理想をあらわすものであります。だからしてその第一主義を云えばある理想が感覚的にあらわれて来なければ、存在の意義が薄くなる訳であります。この理想を感覚的にする方便として始めて技巧の価値が出てくるものと存じます。この理想のない技巧家を称して、いわゆる市気匠気《いちきしょうき》のある芸術家と云うのだろうと考えます。市気匠気のある絵画がなぜ下品かと云うと、その画面に何らの理想があらわれておらんからである。あるいはあらわれていても浅薄で、狭小で、卑俗で、毫《ごう》も人生に触れておらんからであります。
 私は近頃流行する言語を拝借して、人生に触れておらんと申しました。私のいわゆる人生に触れると申す意味は、前段からの議論で大概は御分りになったろうとは思いますが、御約束だから形式的に説明致しますと、比較的簡単で明暸であります。少くとも私だけにはそう思われます。我々は意識の連続を希望します。連続の方法と意識の内容の変化とが吾人に選択《せんたく》の範囲を与えます。この範囲が理想を与えます。そうしてこの理想を実現するのを、人生に触れると申します。これ以外に人生に触れたくても触れられよう訳がありません。そうしてこの理想は真、美、善、壮の四種に分れますからして、この四種の理想を実現し得る人は、同等の程度に人生に触れた人であります。真の理想をあらわし得る人は、美の理想をあらわし得る人と、同様の権利と重みとをもって、人生に触れるのであります。善の理想を示し得る人は壮の理想を示し得る人と、同様の権利と重みをもって、人生に触れたものであります。いずれの理想をあらわしても、同じく人生に触れるのであります。その一つだけが触れて、他は触れぬものだと断言するのは、論理的にかく証明し来ったところで、成立せぬ出放題の広言であります。真は深くもなり、広くもなり得る理想であります。しかしながら、真が独《ひと》り人生に触れて、他の理想は触れぬとは、真以外に世界に道路がある事を認め得ぬ色盲者の云う事であります。東西南北ことごとく道路で、ことごとく通行すべきはずで、大切と云えばことごとく大切であります。
 四種の理想は分化を受けます。分化を受けるに従って変形を生じます。変形を生じつつ進歩する機会を早めます。この変形のうち、もっとも新しい理想を実現する人を人生において新意義を認めた人と云います。変形のうちもっとも深き理想を実現する人を、深刻に人生に触れた人と申します。(云うまでもなく深刻とは真、善、美、壮の四面にわたって申すべき形容詞であります。悲惨だから深刻だとか、暗黒だから深刻だとか云うのは無意味の言語であります)変形のうちもっとも広き理想を実現する人を、広く人生に触れた人と申します。この三つを兼ねて、完全なる技巧によりてこれを実現する人を、理想的文芸家、すなわち文芸の聖人と云うのであります。文芸の聖人はただの聖人で、これに技巧を加えるときに、始めて文芸の聖人となるのであります。聖人の理想と申して別段の事もありません。ただいかにして生存すべきかの問題を解釈するまでであります。
 発達した理想と、完全な技巧と合した時に、文芸は極致に達します。(それだから、文芸の極致は、時代によって推移するものと解釈するのが、もっとも論理的なのであります)文芸が極致に達したときに、これに接するものはもしこれに接し得るだけの機縁が熟していれば、還元的感化を受けます。この還元的感化は文芸が吾人《ごじん》に与え得る至大至高の感化であります。機縁が熟すと云う意味は、この極致文芸のうちにあらわれたる理想と、自己の理想とが契合《けいごう》する場合か、もしくはこれに引つけられたる自己の理想が、新しき点において、深き点において、もしくは広き点において、啓発《けいはつ》を受くる刹那《せつな》に大悟する場合を云うのであります。縁なき衆生《しゅじょう》は度しがたしとは単に仏法のみで言う事ではありません。段違いの理想を有しているものは、感化してやりたくても、感化を受けたくてもとうていどうする事もできません。
 還元的感化と云う字が少々妙だから、御分りにならんかと思います。これを説明すると、こういう意味になります。文芸家は今申す通り自己の修養し得た理想を言語とか色彩とかの方便であらわすので、その現わされる理想は、ある種の意識が、ある種の連続をなすのを、そのままに写し出したものに過ぎません。だからこれに対して享楽《きょうらく》の境《さかい》に達するという意味は、文芸家のあらわした意識の連続に随伴すると云う事になります。だから我々の意識の連続が、文芸家の意識の連続とある度まで一致しなければ、享楽と云う事は行われるはずがありません。いわゆる還元的感化とはこの一致の極度において始めて起る現象であります。
 一致の意味は固《もと》より明暸で、この一致した意識の連続が我々の心のうちに浸み込んで、作物を離れたる後までも痕迹《こんせき》を残すのがいわゆる感化であります。すると説明すべきものはただ還元の二字になります。しかしこの二字もまた一致と云う字面のうちに含まれております。一致と云うと我の意識と彼の意識があって、この二つのものが合して一となると云う意味でありますが、それは一致せぬ前に言うべき事で、すでに一致した以上は一もなく二もない訳でありますからして、この境界に入ればすでに普通の人間の状態を離れて、物我の上に超越しております。ところがこの物我の境を超越すると云う事は、この講演の出立地であって、またあらゆる思索の根拠《こんきょ》本源になります。したがって文芸の作物に対して、我を忘れ彼を忘れ、無意識に(反省的でなくと云う意なり)享楽を擅《ほしいまま》にする間は、時間も空間もなく、ただ意識の連続があるのみであります。もっともここに時間も空間もないと云うのは作物中にないと云うのではない、自己が作物に対する時間、また自己が占めている空間がないという意味であって、読んで何時間かかるか、また読んでいる場所は書斎の裡《うち》か郊外か蓐中《じょくちゅう》かを忘れると云うの
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