える訳には行かず、また手段を離れて思想だけを拝見する訳には無論行きません。それでだんだん論じつめて行くと、どこまでが手段で、どこからが思想だかはなはだ曖昧《あいまい》になります。ちょうどこの白墨について云うと、白い色と白墨の形とを切離すようなものでこの格段な白墨を目安《めやす》にして論ずると白い色をとれば形はなくなってしまいますし、またこの形をとれば白い色も消えてしまいます。両《ふた》つのものは二にして一、一にして二と云ってもしかるべきものであります。そこで哲理的に論ずるとなかなか面倒ですから、分りやすいために実例で説明しようと思います。せんだって大学で講義の時に引用した例がありますから、ちょっとそれで用を弁じておきます。
ここに二つの文章があります。最初のは沙翁《さおう》の句で、次のはデフォーと云う男の句であります。
これを比較すると技巧と内容の区別が自《おのずか》ら判然するだろうと思います。
Uneasy lies the head that wears a crown.
Kings frequently lamented the miserable consequences of being born to great things, and wished they had been in the middle of the two extremes, between the mean and the great.
大体の意味は説明する必要もないまでに明暸であります。すなわち冠《かんむり》を戴《いただ》く頭《かしら》は安きひまなしと云うのが沙翁の句で、高貴の身に生れたる不幸を悲しんで、両極の中《うち》、上下の間に世を送りたく思うは帝王の習いなりと云うのがデフォーの句であります。無論前者は韻語《いんご》の一行で、後者は長い散文小説中の一句であるから、前後に関係して云うと、種々な議論もできますが、この二句だけを独立させて評して見ると、その技巧の点において大変な差違があります。それはあとから説明するとして、二句の内容は、二句共に大同小異である事は、誰も疑わぬほどに明かでありましょう。だから思想から見ると双方共に同様と見ても差支《さしつかえ》ないとします。思想が同様であるにも関わらず、この二句を読んで得る感じには大変な違があります。私はせんだって中《じゅう》デフォーの作物を批評する必要があって、その作物を読直すときに偶然この句に出合いまして、ふと沙翁のヘンリー四世中の語を思い出して、その内容の同じきにも関《かかわ》らず、その感じに大変な相違のあるに驚きましたが、なぜこんな相違があるかに至っては解剖して見るまでは判然と自分にもわからなかったのであります。そこでこれから御話しをするのは私の当時の感じを解剖した所であります。
沙翁の方から述べますと――あの句は帝王が年中(十年でもよい、二十年でもよい。いやしくも彼が位にある間だけ)の身心状態を、長い時間に通ずる言葉であらわさないで、これを一刻につづめて示している。そこが一つの手際《てぎわ》であります。その意味をもっと詳《くわ》しく説明するとこうなります。uneasy(不安)と云う語は漠然《ばくぜん》たる心の状態をあらわすようであるが実は非常に鋭敏なよく利《き》く言葉であります。例《たと》えば椅子の足の折れかかったのに腰をかけて uneasy であるとか、ズボン釣りを忘れたためズボンが擦《ず》り落ちそうで uneasy であるとか、すべて落ちつかぬ様子であります。もちろん落ちつかぬ様子と云うのは、ある時間の経過を含む状態には相違ないが、長時間の経過を待たないで、すぐ眼に映る状態であります。だからこの uneasy と云う語は、長い間持続する状態でも、これを一刻もしくは一分に縮《ちぢ》めて画のようにとっさの際《きわ》に頭脳の裏《うち》に描き出し得る状態であります。
ある人はこう云って、私の説を攻撃するかも知れぬ。――なるほど君の云うような uneasy な状態もあるかも知れない。しかしそれは身体《からだ》の uneasy な場合で心の uneasy な場合ではない。身体の uneasy な状態は長い時間を切って断面的にこれを想像の鏡に写す事もできようが、心の uneasy な場合すなわち心配とか、気がかりというようなものは、そういう風に印象を構成する訳には行かんだろうと。私はその攻撃に対しては、こう答える。――そういう uneasy な状態はあるに相違ない。ないが、ここにはそんな事を考える必要はない。よし帝王の uneasiness が精神的であっても、そう考える必要はない。必要はないと云うよりもそんな余裕はない。uneasy の下《もと》に lies すなわち横わるとある。lies と云うと有形的な物体に適用せらるる文字である。だから uneasy と読んで、どちらの uneasy かと迷う間もなく、直 lies と云う字に接続するからして uneasy の意味は明確になってくる。するとまたこう非難する人が出るかも知れぬ。――lies にも両様がある。有形物について云う事は無論であるが無形物についてもよく使う字である。だから uneasy lies では君の云うように判然たる印象は起って来ないと。この非難に対する私の弁解はこうであります。 uneasy lies では印象が起らぬと云うなら第三字目の head という字を読んで見るがよかろう。head は具体的のものである。よし head までも比喩的な意味に解せられるとしても uneasy lies the head と続けて読んで、しかもこの head を抽象的な能力とか知力とか解釈する者はあるまい。誰でも具体的の髪の生えた頭と解釈するであろう。head を具体的と解する以上は lies も無論有形物の lie する有様に相違ない。してみると uneasy もまた形態に関係のない目に見えぬ意味とは取りにくい。しかもその uneasy な有様はいつまで続くか無論わからないが、よし長時間続く状態にしても、いやしくも続いている間は、いつでも目に見える状態である。いつでも見える状態であるからして、そのいずれの一瞬間を截《た》ち切ってもその断面は長い全部を代表する事ができる、語を換えて云えば、十年二十年の状態を一瞬の間につづめたもの、煮つめたもの、煎《せん》じつめたものを脳裏《のうり》に呼び起すことができると。そこでこの煮つめたところ、煎じつめたところが沙翁の詩的なところで、読者に電光の機鋒《きほう》をちらっと見せるところかと思います。これは時間の上の話であります。長い時間の状態を一時に示す詩的な作用であります。
ところで沙翁《さおう》には今一つの特色があります。上述の時間的なるに対してこれは空間的と云うてもよかろうと思います。すなわちこういう解剖なのです。帝王と云う字は具体の名詞か抽象の名詞かと問えば、誰も具体と答えるだろうと思います。なるほど具体名詞に相違ないです。けれどもただ具体的だと承知するばかりで、明暸《めいりょう》な印象は比較的出にくいのです。帝王の画を眼前でかいて見ろと云われても、すぐと図案は拵《こしら》えられんだろうと思います。私共の脳中にはこの帝王と云うものがすこぶる漠然《ばくぜん》として纏《まとま》らない図になって畳み込まれています。ところへ the head that wears a corwn と云われると、帝王と云う観念が急に判然とします。なぜかと云うと、今までは具体であるということだけが解っていたけれど、局部の知識はすこぶる曖昧《あいまい》で取とめがつかなかったのであります。あたかも度の合わぬ眼鏡で物を見るように、その物は独立して存在しているが他の物と独立している事だけが明暸で、その物の内容は朦朧《もうろう》としておったのであります。ところが uneasy lies the head that wears a crown と云われたので焼点《しょうてん》が急にきまったような心持がするのであります。帝王と云えば個人として帝王の全部を想像せねばならん、全部を想像すると勢《いきおい》ぼんやりする。ぼんやりしないために、局部を想像しようとすると、局部がたくさんあるので、どこを想像してよいか分りません。そこで沙翁は多くある局部のうちで、ここを想像するのが一番いいと教えてくれたのであります。その教えてくれたのは、帝王の足でもない、手でもない。乃至《ないし》は背骨《せぼね》でもない。もしくは帝王の腹の中でもない。彼が指さして、あすこだけを注意して御覧、king がよく見えると教えてくれた所は、燦爛《さんらん》たる冠を戴《いただ》く彼の頭であります。この注意をうけた吾々《われわれ》は今まで全局に眼をちらつかせて要領を得んのに苦しんでいたのに、かく注意を受けたから、試みにその方へ視線をむけると、なるほど king が見えたのであります。明暸なのは局部に過ぎぬけれども、この局部が king を代表してしかるべき精髄であるからして、ここが明暸に見えれば全体を明暸に見たと同じ事になる。取《とり》も直《なお》さず物を見るべき要点を沙翁が我々に教えてくれたのであります。この要点は全体を明かにするにおいて功力があるのみならず、要点以外に気を散らす必要がなく、不要の部分をことごとく切り棄てる事もできるからして、読者から云えば注意力の経済になる。この要点を空間に配して云うと、沙翁は king と云う大きなものを縮めて、単なる「冠を戴く頭」に変化さしてくれたのであります。かくして六尺の人は一尺に足らぬ頭と煎《せん》じつめられたのであります。
してみると沙翁の句は一方において時間を煎じつめ、一方では空間を煎じつめて、そうして鮮《あざや》かに長時間と広空間とを見せてくれております。あたかも肉眼で遠景を見ると漠然《ばくぜん》としているが、一《ひと》たび双眼鏡をかけると大きな尨大《ぼうだい》なものが奇麗《きれい》に縮まって眸裡《ぼうり》に印するようなものであります。そうしてこの双眼鏡の度を合わしてくれるのがすなわち沙翁なのであります。これが沙翁の句を読んで詩的だと感ずる所以《ゆえん》であります。
ところがデフォーの文章を読んで見るとまるで違っております。この男のかき方は長いものは長いなり、短いものは短いなりに書き放して毫《ごう》も煎じつめたところがありません。遠景を見るのに肉眼で見ています。度を合せぬのみか、双眼鏡を用いようともしません。まあ智慧《ちえ》のない叙方と云ってよいでしょう。あるいは心配して読者の便宜《べんぎ》をはかってくれぬ書き方、呑気《のんき》もしくは不親切な書き方と云っても悪くはありますまい。もしくは伸縮方を解せぬ、弾力性のない文章と評しても構わないでしょう。汽車電車は無論人力さえ工夫する手段を知らないで、どこまでも親譲りの二本足でのそのそ歩いて行く文章であります。したがって散文的の感があるのです。散文的な文章とは馬へも乗れず、車へも乗れず、何らの才覚がなくって、ただ地道《じみち》に御拾いでおいでになる文章を云うのであります。これはけっして悪口ではありません、御拾いも時々は結構であります。ただ年が年中足を擂木《すりこぎ》にして、火事見舞に行くんでも、葬式の供に立つんでも同じ心得で、てくてくやっているのは、本人の勝手だと云えば云うようなものの、あまり器量のない話であります。デフォーははなはだ達筆で生涯《しょうがい》に三百何部と云う書物をかきました。まあ車夫のような文章家なのです。
これで二家の文章の批評は了《おわ》ります。この批評によって、我々の得た結論は何であるかと云うと、文芸に在《あ》って技巧は大切なものであると云う事であります。もし技巧がなければせっかくの思想も、気の毒な事に、さほどな利目《ききめ》が出て来ない。沙翁とデフォーは同じ思想をあらわしたのでありますが、その結果は以上のごとく、大変な相違を来
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