文芸の哲学的基礎
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)布衍《ふえん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四五日の後|丁寧《ていねい》なる口上を添えて、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「特のへん+仞のつくり」、第4水準2−80−18]
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 東京美術学校文学会の開会式に一場の講演を依頼された余は、朝日新聞社員として、同紙に自説を発表すべしと云う条件で引き受けた上、面倒ながらその速記を会長に依頼した。会長は快よく承諾されて、四五日の後|丁寧《ていねい》なる口上を添えて、速記を余のもとに送付された。見ると腹案の不充分であったためか、あるいは言い廻し方の不適当であったためか、そのままではほとんど紙上に載せて読者の一覧を煩《わずら》わすに堪《た》えぬくらい混雑している。そこでやむをえず全部を書き改める事にして、さて速記を前へ置いてやり出して見ると、至る処に布衍《ふえん》の必要を生じて、ついには原稿の約二倍くらい長いものにしてしまった。
 題目の性質としては一気に読み下さないと、思索の縁を時々に切断せられて、理路の曲折、自然の興趣に伴わざるの憾《うらみ》はあるが、新聞の紙面には固《もと》より限りのある事だから、不都合《ふつごう》を忍んで、これを一二欄ずつ日ごとに分載するつもりである。
 この事情のもとに成れる左の長篇は、講演として速記の体裁を具うるにも関わらず、実は講演者たる余が特に余が社のために新《あらた》に起草したる論文と見て差支《さしつかえ》なかろうと思う。これより朝日新聞社員として、筆を執《と》って読者に見《まみ》えんとする余が入社の辞に次いで、余の文芸に関する所信の大要を述べて、余の立脚地と抱負とを明かにするは、社員たる余の天下公衆に対する義務だろうと信ずる。
[#ここで字下げ終わり]

 私はまだ演説ということをあまり――あまりではないほとんどやった事のない男で、頼まれた事は今まで大分ありましたけれどもみんな断ってしまいました。どうも嫌《いや》なんですな。それにできないのです。その代り講義の方はこの間まで毎日やって来ましたから、おそらく上手だろうと思うのですけれどもあいにく御頼みが演説でありますから定めて拙《まず》いだろうと存じます。
 実はせんだって大村さんがわざわざおいでになって何か演説を一つと云う御注文でありましたが、もともと拙いと知りながら御引受をするのも御気の毒の至りと心得てまずは御辞退に及びました。ところがなかなか御承知になりません。是非やれ、何でもいいからやれ、どうかやれ、としきりにやれやれと御勧《おすす》めになります。それでもと云って首を捻《ひね》っていると、しまいには演説はやらんでもいいと申されます。演説をやらんで何を致しますかと伺うと、ただ出席してみんなに顔さえ見せれば勘弁すると云う恩命であります。そこで私も大決心を起して、そのくらいの事なら恐るるに及ばんと快く御受合を致しました。――今日《こんにち》はそう云う条件の下にここに出現した訳であります。けれども不幸にしてあまり御覧に入れるほどな顔でもない。顔だけではあまり軽少と思いますからついでに何か御話を致しましょう。もとより演説と名のつく諸君よ諸君[#「諸君よ諸君」に傍点]はとてもできませんから演説と云ってもその実は講義になるでしょう。講義になるとすると、私の講義は暗《そら》ではやらない、云う事はことごとく文章にして、教場でそれをのべつに話す方針であります。ところが今日はそれほどの閑暇《ひま》もなし、また考えも纏《まと》まっておりません。だから上手であるべき講義も今日に限って存外|拙《まず》い訳であります。
 美術学校でこういう文学的の会を設立して、諸君の専門技芸以外に、一般文学の知識と趣味を養成せられるのは大変に面白い事と思います。ただいま正木校長の御話のように文学と美術は大変関係の深いものでありますから、その一方を代表なさる諸君が文学の方面にも一種の興味をもたれて、われわれのような不調法《ぶちょうほう》ものの講話を御参考に供して下さるのは、この両者の接触上から見て、諸君の前に卑見を開陳すべき第一の機会を捕《とら》えた私は多大の名誉と感ずる次第であります。できない演説を無理にやるのは全くこのためで、やりつけないものを受け合ったからと云って、けっして恩に着せる訳ではありません。全く大なる光栄と心得てここへ出て来たのである。が繰返《くりかえ》して云う通り、演説はできず講義としては纏《まと》まらず、定めて聞苦しい事もあるだろうと思います。その辺はあらかじめ御容赦《ごようしゃ》を願います。
 まずこれからそろそろやり始めます。やり始めますよと断ると何だかえらそうに聞えるが、その実は何でもない。ここに三四|頁《ページ》ばかり書いたノートがあります。これから御話をする事はこの三四頁の内容に過ぎんのでありますからすらすらとやってしまうと十五分くらいですぐすんでしまう。いくらついでにする演説でもそれではあまり情ない。からこの三四頁を口から出まかせに敷衍《ふえん》して進行して行きます。敷衍しかたをあらかじめ考えていないから、どこをどっちへ敷衍するか分らない。時によると飛んだ寄り道をして、出る所へも出られず、帰る所へも帰れないかも知れないと云うすこぶる心細い敷衍法を用います。のみならず冒頭《はじめ》が何だか訳の分らない事から始まるかも知れないから、けっして驚いてはいけません。いずれ結末には美術とか文学とか御互に縁の深い方面へずり落ちて行く事と安心して聴いていただきたい。――ただいま正木会長の御演説中に市気匠気《いちきしょうき》と云う語がありましたが、私の御話も出立地こそぼうっとして何となく稀有《けう》の思はあるが、落ち行く先はと云うと、これでも会長といっしょに市気匠気まで行くつもりであります。
 まず――私はここに立っております。そうしてあなた方《がた》はそこに坐《すわ》っておられる。私は低い所に立っている、あなた方は高い所に坐っておられる、かように私が立っているという事と、あなた方が坐っておらるると云う事が――事実であります。この事実と云うのを他の言葉で現して見ようならば、私は我[#「我」に白丸傍点]と云うもの、あなた方は私に対して私以外のものと云う意味であります。もっとむずかしい表現法を用いると物我対立と云う事実であります。すなわち世界は我と物との相待の関係で成立していると云う事になる。あなた方も定めてそう思われるでありましょう、私もそう思うております。誰しもそう心得ているのである。それから私が、こうやってここに立っており、あなた方が、そうして、そこに坐ってござると、その間に距離というものがある。一間の距離とか、二間の距離とかあるいは十間二十間――この講堂の大きさはどのくらいありますか――とにかく幾坪かの広がりがあって、その中に私が立っており、その中にあなた方が坐っていることになる。この広がりを空間と申します。(申さなくっても御承知である)つまりはスペースと云うものがあって、万物はその中に、各《おのおの》、ある席を占めている。次に今日の演説は一時から始まります。そうしていつ終るか分りませんが、まあいつか終るでしょう。大概は日が暮れる前に終る事と思います。私がこうやって好加減《いいかげん》な事をしゃべって、それが済むとあとから、上田さんが代ってまた面白い講話がある。それから散会となる。私の講話も、上田さんの演説も皆経過する事件でありまして、この経過は時間と云うものがなければ、どうしても起る訳に参りません。これも明暸《めいりょう》な事で別段改めて申上げる必要はない。最後に、なぜ私がここにこうやって出て来て、しきりに口を動かしているかと云えば、これは酔狂《すいきょう》や物数奇《ものずき》で飛出して来たと思われては少し迷惑であります。そこにはそれ相当な因縁《いんねん》、すなわち先刻申上げた大村君の鄭重《ていちょう》なる御依頼とか、私の安受合とか、受合ったあとの義務心とか、いろいろの因縁《いんねん》が和合したその結果かくのごとくフロックコートを着て参りました。この関係を(人事、自然に通じて)因果《いんが》の法則と称《とな》えております。
 すると、こうですな。この世界には私と云うものがありまして、あなた方《がた》と云うものがありまして、そうして広い空間の中におりまして、この空間の中で御互に芝居をしまして、この芝居が時間の経過で推移して、この推移が因果の法則で纏《まと》められている。と云うのでしょう。そこでそれにはまず私と云うものがあると見なければならぬ、あなた方があると見なければならぬ。空間というものがあると見なければならぬ。時間と云うものがあると見なければならぬ。また因果の法則と云うものがあって、吾人《ごじん》を支配していると見なければならん。これは誰も疑うものはあるまい。私もそう思う。
 ところがよくよく考えて見ると、それがはなはだ怪しい。よほど怪しい。通俗には誰もそう考えている。私も通俗にそう考えている。しかし退《しりぞ》いて不通俗に考えて見るとそれがすこぶるおかしい。どうもそうでないらしい。なぜかと云うと元来《がんらい》この私と云う――こうしてフロックコートを着て高襟《ハイカラ》をつけて、髭《ひげ》を生《は》やして厳然と存在しているかのごとくに見える、この私の正体がはなはだ怪しいものであります。フロックも高襟も目に見える、手に触れると云うまでで自分でないにはきまっている。この手、この足、痒《かゆ》いときには掻《か》き、痛いときには撫《な》でるこの身体《からだ》が私かと云うと、そうも行かない。痒い痛いと申す感じはある。撫でる掻くと云う心持ちはある。しかしそれより以外に何にもない。あるものは手でもない足でもない。便宜《べんぎ》のために手と名づけ足と名づける意識現象と、痛い痒いと云う意識現象であります。要するに意識はある。また意識すると云う働きはある。これだけはたしかであります、これ以上は証明する事はできないが、これだけは証明する必要もないくらいに炳乎《へいこ》として争うべからざる事実であります。して見ると普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、ただ意識の連続して行くものに便宜上《べんぎじょう》私と云う名を与えたのであります。何が故《ゆえ》に平地に風波を起して、余計な私[#「私」に白丸傍点]と云うものを建立《こんりゅう》するのが便宜かと申すと、「私[#「私」に白丸傍点]」と、一たび建立するとその裏には、「あなた方」と、私以外のものも建立する訳になりますから、物我の区別がこれでつきます。そこがいらざる葛藤《かっとう》で、また必要な便宜なのであります。
 こう云うと、私は自分(普通に云う自分)の存在を否定するのみならず、かねてあなた方《がた》の存在をも否定する訳になって、かように大勢傍聴しておられるにもかかわらず、有れども無きがごとくではなはだ御気の毒の至りであります。御腹も御立ちになるでしょうが、根本的の議論なのだから、まず議論として御聴きを願いたい。根本的に云うと失礼な申条だがあなた方は私を離れて客観的に存在してはおられません。――私を離れてと申したが、その私さえいわゆる私としては存在しないのだから、いわんやあなた方においてをやであります。いくら怒られても駄目《だめ》であります。あなた方はそこにござる。ござると思ってござる。私もまあちょっとそう思っています。います事は、いますがただかりにそう思って差し上げるまでの事であります。と云うものは、いくらそれ以上に思って上げたくてもそれだけの証拠《しょうこ》がないのだから仕方がありません。普通に物の存在を確《たしか》めるにはまず眼で見ますかね。眼で見た上で手で触れて見る。手で触れたあとで、嗅《か
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