》いでみる、あるいは舐《な》めてみる。――あなた方の存在を確めるにはそれほど手数はかからぬかも知れぬが。けれども前にも申した通り眼で見ようが、耳できこうが、根本的に云えば、ただ視覚と聴覚を意識するまでで、この意識が変じて独立した物とも、人ともなりよう訳がない。見るときに触るるときに、黒い制服を着た、金釦《きんボタン》の学生の、姿を、私の意識中に現象としてあらわし来《きた》ると云うまでに過ぎないのであります。これを外《ほか》にしてあなた方の存在と云う事実を認めることができようはずがない。すると煎《せん》じ詰めたところが私もなければ、あなた方もない。あるものは、真にあるものは、ただ意識ばかりである。金釦が眼に映ずる、金釦を意識する。講堂の天井《てんじょう》が黒くなっている、その黒い所を意識する。――これは悪口ではありません。美術学校の天井が黒いと云うのではない、ただ黒いと意識するので、客観的存在は認めておらん悪口だから構わないでしょう。
まずこれだけの話であります。すると通俗の考えを離れて物我の世界を見たところでは、物が自分から独立して現存していると云う事も云えず、自分が物を離れて生存していると云う事も申されない。換言して見ると己《おのれ》を離れて物はない、また物を離れて己はないはずとなりますから、いわゆる物我なるものは契合一致《けいごういっち》しなければならん訳になります。物我の二字を用いるのはすでに分りやすいためにするのみで、根本義から云うと、実はこの両面を区別しようがない、区別する事ができぬものに一致などと云う言語も必要ではないのであります。だからただ明かに存在しているのは意識であります。そうしてこの意識の連続を称して俗に命《いのち》と云うのであります。
連続と云う字を使用する以上は意識が推移して行くと云う意味を含んでおって、推移と云う意味がある以上は(一)意識に単位がなければならぬと云う事と(二)この単位が互に消長すると云う事と(三)は消長が分明であるくらいに単位意識が明暸《めいりょう》でなければならぬと云う事と(四)意識の推移がある法則に支配せらるるやと云う事になりますから、問題がよほど込入って来ますが、今はそんな面倒な事を御話する場合でないから、諸君の御研究に一任する事として講話を進めます。もっとも今申した四カ条のうち、意識推移の原則については私の「文学論」の第五篇に不完全ながら自分の考えだけは述べておきましたから、御参考を願いたいと思います。ついでに「文学論」も一部ずつ御求めを願いたいと思います。――とにかく意識がある。物もない、我もないかも知れないが意識だけはたしかにある。そうしてこの意識が連続する。なぜ連続するかは哲学的にまたは進化的に説明がつくにしても、つかぬにしても連続するのはたしかであるから、これを事実として歩を進めて行く。
そこでちょっと留まって、この講話の冒頭を顧《かえり》みると少々妙であります。最初には私と云うものがあると申しました。あなた方《がた》もたしかにおいでになると申しました。そうして、御互に空間と云う怪しいものの中に這入《はい》り込んで、時間と云う分らぬものの流れに棹《さお》さして、因果《いんが》の法則と云う恐ろしいものに束縛せられて、ぐうぐう云っていると申しました。ところが不通俗に考えた結果によるとまるで反対になってしまいました。物我などと云う関門は最初からない事になりました。天地すなわち自己と云うえらい事になりました。いつの間にこう豹変《ひょうへん》したのか分らないが、全く矛盾してしまいました。(空間、時間、因果律もやはりこの豹変のうちに含んでいます。それは講話の都合で後廻しにしましたから、今にだんだんわかります)
なぜこんな矛盾が起ったのだろうか。よく考えると何にもないのに、通俗では森羅万象《しんらばんしょう》いろいろなものが掃蕩《そうとう》しても掃蕩しきれぬほど雑然として宇宙に充※[#「特のへん+仞のつくり」、第4水準2−80−18]《じゅうじん》している。戸張君ではないが天地前にあり、竹風ここにありと云いたくなるくらいであります。――なぜこんな矛盾が起ったのであろうか。これはすこぶる大問題である。面倒にむずかしく論じて来たら大分暇がかかりましょう。私は必要上、ごく粗末なところを、はなはだ短い時間内に御話するのであるから、無論|豪《えら》い哲学者などが聞いておられたら、不完全だと云って攻撃せられるだろうと思います。しかしこの短い時間内に、こんな大袈裟《おおげさ》な問題を片づけるのだから、無論完全な事を云うはずがない、不完全は無論不完全だが、あの度胸が感心だと賞《ほ》めていただきたい。もっとも時間は幾らでも与えるから、もっと立派に言えと注文されても私の手際《てぎわ》では覚束《おぼつか》ないかも知れない。まあちょうどよいのです。
どうして、こんな矛盾が起るかと云う問題に対して、ただ一口に説明してしまえば訳はない。前に申す通り吾々《われわれ》の生命は――吾々と云うと自他を樹立する語弊はあるがしばらく便宜のために使用します――吾々の生命は意識の連続であります。そうしてどういうものかこの連続を切断する事を欲しないのであります。他の言葉で云うと死ぬ事を希望しないのであります。もう一つ他の言葉で云うとこの連続をつづけて行く事が大好きなのであります。なぜ好むかとなると説明はできない。誰が出て来ても説明はできない。ただそれが事実であると認めるよりほかに道はない。もちろん進化論者に云わせるとこの願望も長い間に馴致《じゅんち》発展し来ったのだと幾分かその発展の順序を示す事ができるかも知れない。と云うものはそんな傾向をもっておらないようなもの、その傾向に応じて世の中に処して来なかったものは皆死んでしまったので、今残っているやつは命の欲しい欲張りばかりになったのだと論ずる事もできるからであります。御互のように命については極《きわ》めて執着の多い、奇麗《きれい》でない、思い切りのわるい連中が、こうしてぴんぴんしているような訳かも知れません。これでも多少の説明にはなります。しかしもっと進んでこの傾向の大原因を極めようとすると駄目であります。万法一に帰す、一いずれの所にか帰すというような禅学の公案工夫に似たものを指定しなければならんようになります。ショペンハウワーと云う人は生欲の盲動的意志と云う語でこの傾向をあらわしております。まことに重宝な文句であります。私もちょっと拝借しようと思うのですが、前に述べた意識の連続以外にこんな変挺《へんてこ》なものを建立《こんりゅう》すると、意識の連続以外に何《なん》にもないと申した言質に対して申訳が立ちませんから、残念ながらやめに致して、この傾向は意識の内容を構成している一部分すなわち属性と見做《みな》してしまいます。そうして「この傾向」と云うような概念は抽象の結果、よほど発達した後に「この傾向」として放出したものと認めるのであります。それは、ともかくも「吾人は意識の連続を求[#「求」に白丸傍点]める」と云う事だけを事実として受けとらねばならぬのであります。もっと明暸《めいりょう》に云うと「意識には連続的傾向がある」と云い切ってこれを事実として受けとるのであります。
意識と云い、連続と云い、連続的傾向と云うとそのうちに意識の分化と云う事と統一と云う事は自然と含まっております。すでに連続とある以上は甲と乙と連続したと云う事実を意識せねばならぬ、すなわち甲と乙と差別がつくほどに両意識が明暸でなければなりません。差別がつくと云うのは、同時に同じ意識もしくは類似の意識を統一し得ると云う意味と同じ事になります。例《たと》えてみれば視覚となづける意識は、分化の結果、触覚や味覚と差別がつくと、同時にあらゆる視覚的意識を統一する事ができて始めてできる言語であります。意識にこれだけの分化作用ができて、その分化した意識と、眼球《めだま》と云う器械を結びつけて、この種の意識は眼球が司《つかさ》どるのだと思いつく。しばらく視覚の意識と眼球の作用を混同して云うと、昔し分化作用の行われぬうちは視力は必ずしも眼球に集中しておらなかったろう。私も遠い昔では、からだ全体で物を見ていたかも知れぬ、あるいは背中で物を舐《な》めていたかも知れぬ。眼《め》耳《みみ》鼻《はな》舌《した》と分業が行われ出したのは、つい近頃の事であると思います。こう分業が行われだすと融通が利《き》かなくなります。ちょっと舌癌《ぜつがん》にかかったからと云うて踵《かかと》で飯を食う訳には行かず、不幸にして痳疾《りんしつ》を患《うれ》いたからと申して臍《へそ》で用を弁ずる事ができなくなりました。はなはだ不都合《ふつごう》であります。しかし意識の連続[#「連続」に白丸傍点]と云う以上は、――連続[#「連続」に白丸傍点]の意義が明暸《めいりょう》になる以上は、――連続を形ちづくる意識の内容が明暸でなければならぬはずであります。明暸でない意識は連続しているか、連続していないか判然しない。つまり吾人の根本的傾向に反する。否《いな》意識そのものの根本的傾向に反するのであります。意識の分化と統一とはこの根本的傾向から自然と発展して参ります。向後どこまで分化と統一が行われるかほとんど想像がつかない。しかしてこれに応ずる官能もどのくらい複雑になるか分りません。今日では目に見えぬもの、手に触れる事のできぬもの、あるいは五感以上に超然たるものがしだいに意識の舞台に上る事であろうと思いますから、まず気を長くして待っていたらよかろうと思います。
もう一遍|繰返《くりかえ》して「意識の連続」と申します。この句を割って見ると意識と云う字と連続と云う字になります。こうして意識の内容のいかんと、この連続の順序のいかんと二つに分れて問題は提起される訳であります。これを合すれば、いかなる内容の意識をいかなる順序に連続させるかの問題に帰着します。吾人がこの問題に逢着《ほうちゃく》したとき――吾人は必ずこの問題に逢着するに相違ない。意識及その連続を事実と認める裏にはすでにこの問題が含まれております。そうしてこの問題の裏面には選択《せんたく》と云う事が含まれております。ある程度の自由がない以上は、また幾分か選択の余裕がないならばこの問題の出ようはずがない。この問題が出るのはこの問題が一通り以上に解決され得るからである。この解決の標準を理想[#「理想」に白丸傍点]というのであります。これを纏《まと》めて一口に云うと吾人は生きたいと云う傾向をもっている。(意識には連続的傾向があると云う方が明確かも知れぬが)この傾向からして選択が出る。この選択から理想が出る。すると今まではただ生きればいいと云う傾向が発展して、ある特別の意義を有する命が欲しくなる。すなわちいかなる順序に意識を連続させようか、またいかなる意識の内容を選ぼうか、理想はこの二つになって漸々《ぜんぜん》と発展する。後に御話をする文学者の理想もここから出て参るのであります。
次に連続と云う字義をもう一遍|吟味《ぎんみ》してみますと、前にも申す通り、ははあ連続している哩《わい》と相互の区別ができるくらいに、連続しつつある意識は明暸《めいりょう》でなければならぬはずであります。そうして、かように区別し得る程度において明暸なる意識が、新陳代謝すると見ると、甲が去[#「去」に白丸傍点]って乙が来[#「来」に白丸傍点]ると云う順序がなければならぬはずであります。順序があるからには甲乙が共に意識せられるのではない。甲が去った後で、乙を意識するのであるから、乙を意識しているときはすでに甲は意識しておらん訳です。それにもかかわらず甲と乙とを区別する事ができるならば、明暸なる乙の意識の下には、比較的不明暸かは知らぬが、やはり甲の意識が存在していると見做《みな》さなければなりません。俗にこの不明暸な意識を称して記憶と云うのであります。だからして記憶の最高度はもっとも明暸なる上層の意識で、その最低度はもっとも不明暸なる下層の
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