意識に過ぎんのであります。
すると意識の連続は是非共記憶を含んでおらねばならず、記憶というと是非共時間を含んで来なければならなくなります。からして時間と云うものは内容のある意識の連続を待って始めて云うべき事で、これと関係なく時間が独立して世の中に存在するものではない。換言すれば意識と意識の間に存する一種の関係であって、意識があってこそこの関係が出るのであります。だから意識を離れてこの関係のみを独立させると云う事は便宜上の抽象として差支《さしつかえ》ないが、それ自身に存在するものと見る訳には参りません。ちょうどここにある水指《みずさし》のなかから白い色だけをとって、そうして物質を離れて白い色が存在すると主張するようなものであります。ちょっと考えると時間と云うものが流れていて、その永劫《えいごう》の流れのなかに事件が発展推移するように見えますが、それは前に申した分化統一の力が、ここまで進んだ結果時間と云うものを抽象して便宜上《べんぎじょう》これに存在を許したとの意味にほかならんのであります。薔薇《ばら》の中から香水を取って、香水のうちに薔薇があると云ったような論鋒《ろんぽう》と思います。私の考えでは薔薇のなかに香水があると云った方が適当と思います。もっともこの時間及びあとから御話をする空間と云うのは大分むずかしい問題で、哲学者に云わせると大変やかましいものでありますから、私のような粗末な考えを好い加減に云う時は、あまり御信じにならん方がよいかも知れませんが、――しかしあまり信じなくってもいけません。まず演説の終るまで信じておって、御宅へ御帰りになる頃に信じなくなるのがちょうどいい加減であろうと思います。
次に今云う意識の連続――すなわち甲が去って乙がくるときに、こう云う場合がある。まず甲を意識して、それから乙を意識する。今度はその順を逆にして、乙を意識してから甲に移る。そうしてこの両《ふた》つのものを意識する時間を延しても縮めても、両意識の関係が変らない。するとこの関係は比較的時間と独立した関係であって、しかもある一定の関係であるという事がわかる。その時に吾人はこれを時間の関係に帰着せしむる事ができない事を悟って、これに空間的関係の名を与えるのであります。だからしてこれも両意識の間に存する一種の関係であって、意識そのものを離れて空間なるものが存在しているはずがない。空間自存の概念が起るのはやはり発達した抽象を認めて実在と見做《みな》した結果にほかならぬ。文法と云うものは言葉の排列上における相互の関係を法則にまとめたものであるが、小児は文法があって、それから文章があるように考えている。文法は文章があって、言葉があって、その言葉の関係を示すものに過ぎんのだからして、文法こそ文章のうちに含まれていると云ってしかるべきであるごとく空間の概念も具体的なる両意識のうちに含まれていると云ってもよろしいと思う。それを便宜《べんぎ》のために抽象して離してしまって広い空間を勝手次第に抛《ほう》り出すと、無辺際のうちにぽつりぽつりと物が散点しているような心持ちになります。もっともこの空間論も大分難物のようで、ニュートンと云う人は空間は客観的に存在していると主張したそうですし、カントは直覚だとか云ったそうですから、私の云う事は、あまり当《あて》にはなりません。あなた方が当になさらんでも、私はたしかにそう思ってるんだから毫《ごう》も差支《さしつかえ》はありません。ただ自分だけで、そう思っていればすむ事を、かように何のかのと申し上げるのは、演説を御頼みになった因果《いんが》でやむをえず申し上げるので、もしこれを申し上げないと、いつまでたっても文学談に移る事はできないのであります。
さて抽象の結果として、時間と空間に客観的存在を与えると、これを有意義ならしむるために数《すう》というものを製造して、この両つのものを測《はか》る便宜法を講ずるのであります。世の中に単に数というような間《ま》の抜けた実質のないものはかつて存在した試しがない。今でもありません。数と云うのは意識の内容に関係なく、ただその連続的関係を前後に左右にもっとも簡単に測《はか》る符牒《ふちょう》で、こんな正体のない符牒を製造するにはよほど骨が折れたろうと思われます。
それから意識の連続のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につながって出て来るのがあります。甲の後には必ず乙が出る。いつでも出る。順序において毫《ごう》も変る事がない。するとこの一種の関係に対して吾人《ごじん》は因果《いんが》の名を与えるのみならず、この関係だけを切り離して因果の法則と云うものを捏造《ねつぞう》するのであります。捏造と云うと妙な言葉ですが、実際ありもせぬものをつくり出すのだから捏造に相違ない。意識現象に附着しない因果はから[#「から」に傍点]の因果であります。因果の法則などと云うものは全くから[#「から」に傍点]のもので、やはり便宜上の仮定に過ぎません。これを知らないで天地の大法に支配せられて……などと云ってすましているのは、自分で張子《はりこ》の虎を造ってその前で慄《ふる》えているようなものであります。いわゆる因果法と云うものはただ今までがこうであったと云う事を一目《いちもく》に見せるための索引に過ぎんので、便利ではあるが、未来にこの法を超越した連続が出て来ないなどと思うのは愚《ぐ》の極《きょく》であります。それだから、よく分った人は俗人の不思議に思うような事を毫《ごう》も不思議と思わない。今まで知れた因果《いんが》以外にいくらでも因果があり得るものだと承知しているからであります。ドンが鳴ると必ず昼飯《ひるめし》だと思う連中とは少々違っています。
ここいらで前段に述べた事を総括《そうかつ》しておいて、それから先へ進行しようと思います。(一)吾々は生きたいと云う念々《ねんねん》に支配せられております。意識の方から云うと、意識には連続的傾向がある。(二)この傾向が選択《せんたく》を生ずる。(三)選択が理想を孕《はら》む。(四)次にこの理想を実現して意識が特殊[#「特殊」に白丸傍点]なる連続的方向を取る。(五)その結果として意識が分化する、明暸《めいりょう》になる、統一せられる。(六)一定の関係を統一して時間に客観的存在を与える。(七)一定の関係を統一して空間に客観的存在を与える。(八)時間、空間を有意義ならしむるために数を抽象してこれを使用する。(九)時間内に起る一定の連続を統一して因果《いんが》の名を附して、因果の法則を抽象する。
まずざっと、こんなものであります。してみると空間というものも時間というものも因果の法則というものも皆|便宜上《べんぎじょう》の仮定であって、真実に存在しているものではない。これは私がそう云うのです。諸君がそうでないと云えばそれでもよい。御随意である。とにかく今日だけはそう仮定したいものだと思います。それでないと話が進行しません。なぜこんな余計な仮定をして平気でいるかというと、そこが人間の下司《げす》な了簡《りょうけん》で、我々はただ生きたい生きたいとのみ考えている。生きさえすれば、どんな嘘《うそ》でも吐《つ》く、どんな間違でも構わず遂行する、真《まこと》にあさましいものどもでありますから、空間があるとしないと生活上不便だと思うと、すぐ空間を捏造《ねつぞう》してしまう。時間がないと不都合だと勘づくと、よろしい、それじゃ時間を製造してやろうと、すぐ時間を製造してしまいます。だからいろいろな抽象や種々な仮定は、みんな背に腹は代えられぬ切なさのあまりから割り出した嘘であります。そうして嘘から出た真実《まこと》であります。いかにこの嘘が便宜であるかは、何年となく嘘をつき習った、末世澆季《まつせぎょうき》の今日では、私もこの嘘を真実《しんじつ》と思い、あなた方もこの嘘を真実と思って、誰も怪しむものもなく、疑うものもなく、公々然|憚《はばか》るところなく、仮定を実在と認識して嬉《うれ》しがっているのでも分ります。貧して鈍すとも、窮すれば濫《らん》すとも申して、生活難に追われるとみんなこう堕落して参ります。要するに生活上の利害から割り出した嘘だから、大晦日《おおみそか》に女郎のこぼす涙と同じくらいな実《まこと》は含んでおります。なぜと云って御覧なさい。もし時間があると思わなければ、また時間を計る数と云うものがなければ、土曜に演説を受け合って日曜に来るかも知れない。御互の損になります。空間があると心得なければ、また空間を計る数と云うものがなければ、電車を避ける事もできず、二階から下りる事もできず、交番へ突き当ったり、犬の尾を踏んだり、はなはだ嬉《うれ》しくない結果になります。普通に知れ渡った因果の法則もこの通りであります。だからすべてこれらに存在の権利を与えないと吾身《わがみ》が危ういのであります。わが身が危うければどんな無理な事でもしなければなりません。そんな無法があるものかと力味《りきん》でいる人は死ぬばかりであります。だから現今ぴんぴん生息している人間は皆不正直もので、律義《りちぎ》な連中はとくの昔に、汽車に引かれたり、川へ落ちたり、巡査につかまったりして、ことごとく死んでしまったと御承知になれば大した間違はありません。
すでに空間ができ、時間ができれば意識を割《さ》いて我と物との二つにする事は容易であります。容易などころの騒ぎじゃない。実は我と物を区別してこれを手際《てぎわ》よく安置するために空間と時間の御堂《みどう》を建立《こんりゅう》したも同然である。御堂ができるや否や待ち構えていた我々は意識を攫《つか》んでは抛《な》げ、攫んでは抛げ、あたかも粟餅屋《あわもちや》が餅をちぎって黄《き》ナ粉《こ》の中へ放り込むような勢で抛げつけます。この黄ナ粉が時間だと、過去の餅、現在の餅、未来の餅になります。この黄ナ粉が空間だと、遠い餅、近い餅、ここの餅、あすこの餅になります。今でも私の前にあなた方が百五十人ばかりならんでおられる。これは失礼ながら私が便宜のため、そこへ抛げ出したのであります。すでに空間のできた今日であるから、嘘にもせよせっかく出来上ったものを使わないのも宝の持腐れであるから、都合により、ぴしゃぴしゃ投出すと約百余人ちゃんと、そこに行儀よく並んでおられて至極《しごく》便利であります。投げると申すと失敬に当りますが、粟餅《あわもち》とは認めていないのだから、大した非礼にはなるまいと思います。
この放射作用と前に申した分化作用が合併《がっぺい》して我以外のものを、単に我以外のものとしておかないで、これにいろいろな名称を与えて互に区別するようになります。例えば感覚的なものと超感覚的なもの(あるかないか知らないが幽霊とか神とか云う正体の分らぬものを指すのです)に分類する。その感覚的なものをまた眼で見る色や形、耳で聴く音や響、鼻で嗅《か》ぐ香、舌でしる味などに区別する。かくのごとく区別されたものを、まただんだんに細かく割って行く。分化作用が行われて、感覚が鋭敏になればなるほどこの区別は微精になって来ます。のみならず同一に統一作用が行われるからして、一方では草となり、木となり、動物となり、人間となるのみならず。草は菫《すみれ》となり、蒲公英《たんぽぽ》となり、桜草となり、木は梅となり、桃となり、松となり、檜《ひのき》となり、動物は牛、馬、猿、犬、人間は士、農、工、商、あるいは老、若、男、女、もしくは貴、賤、長、幼、賢、愚、正、邪、いくらでも分岐して来ます。現に今日でも植物学者の見分け得る草や花の種類はほとんど吾人《ごじん》の幾百倍に上るであろうと思います。また諸君のような画家の鑑別する色合は普通人の何十倍に当るか分らんでしょう。それも何のためかと云えば、元に還って考えて見ると、つまりは、うまく生きて行こうの一念に、この分化を促《うなが》されたに過ぎないのであります。ある一種の意識連続を自由に得んがために(選択の区域に出来得るだけの余裕を与えんがために)あらかじめ意識の
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