範囲を広くすると云う意味にほかならんのであります。私共はどの草を見ても皆一様に青く見える。青のうちでいろいろな種類を意識したいと思っても、いかんせん分化作用がそこまで達しておらんから皆無駄目である。少くとも色について変化に富んだ複雑の生活は送れない事に帰着する。盲眼《めくら》の毛の生《は》えたものであります。情ない次第だと思います。或る評家の語に吾人が一色を認むるところにおいてチチアンは五十色を認めるとあります。これは単に画家だから重宝だと云うばかりではありません。人間として比較的融通の利《き》く生活が遂げらるると云う意味になります。意識の材料が多ければ多いほど、選択の自由が利いて、ある意識の連続を容易に実行できる――即ち自己の理想を実行しやすい地位に立つ――人と云わなければならぬから、融通の利く人と申すのであります。単に色ばかりではありません。例えば思想の乏しい人の送る内|生涯《しょうがい》と云うものも色における吾々と同じく、気の毒なほど憐《あわれ》なものです。いくら金銭に不自由がなくても、いくら地位門閥が高くても、意識の連続は単調で、平凡で、毫《ごう》も理想がなくて、高、下、雅、俗、正、邪、曲、直の区別さえ分らなくて昏々濛々《こんこんもうもう》としてアミーバのような生活を送ります。こんな連中は人間さえ見れば誰も彼もみな同じ物だと思って働きかけます。それは頭が不明暸《ふめいりょう》なんだからだと注意してやると、かえって吾々を軽蔑《けいべつ》したり、罵倒したりするから厄介です――しかしこれはここで云う事ではない。演説の足が滑《すべ》って泥溝《どぶ》の中へちょっと落ちたのです。すぐ這《は》い上《あが》って真直に進行します。
 吾人は今申す通り我[#「我」に白丸傍点]に対する物[#「物」に白丸傍点]を空間に放射して、分化作用でこれを精細に区別して行きます。同時に我[#「我」に白丸傍点]に対してもまた同様の分化作用を発展させて、身体と精神とを区別する。その精神作用を知、情、意、の三に区別します。それからこの知を割り、情を割り、その作用の特性によってまたいろいろに識別して行きます。この方面は主として心理学者と云うものが専門として担任しているから、これらの人に聞くのが一番わかりやすい。もっとも心理学者のやる事は心の作用を分解して抽象してしまう弊《へい》がある。知情意は当を得た分類かも知れぬが、三つの作用が各独立して、他と交渉なく働いているものではありません。心の作用はどんなに立入って細かい点に至っても、これを全体として見るとやはり知情意の三つを含んでいる場合が多い。だからこの三作用を截然《せつぜん》と区別するのは全く便宜上《べんぎじょう》の抽象である。この抽象法を用いないで、しかも極度の分化作用による微細なる心の働き(全体として)を写して人に示すのはおもに文学者がやっている。だから文学者の仕事もこの分化発展につれてだんだんと、朦朧《もうろう》たるものを明暸に意識し、意識したるものを仔細《しさい》に区別して行きます。例えば昔の竹取物語とか、太平記とかを見ると、いろいろな人間が出て来るがみんな同じ人間のようであります。西鶴などに至ってもやはりそうであります。つまりああいう著者には人間がたいてい同様にぼうっと見えたのでありましょう。分化作用の発展した今日になると人間観がそう鷹揚《おうよう》ではいけない。彼らの精神作用について微妙な細《こまか》い割り方をして、しかもその割った部分を明細に描写する手際《てぎわ》がなければ時勢に釣り合わない。これだけの眼識のないものが人間を写そうと企てるのは、あたかも色盲が絵をかこうと発心するようなものでとうてい成功はしないのであります。画を専門になさる、あなた方《がた》の方から云うと、同じ白色を出すのに白紙の白さと、食卓布の白さを区別するくらいな視覚力がないと視覚の発達した今日において充分理想通りの色を表現する事ができないと同様の意義で、――文学者の方でも同性質、同傾向、同境遇、同年輩の男でも、その間に微妙な区別を認め得るくらいな眼光がないと、人を視る力の発達した今日においては、性格を描写したとは申されないのであります。したがって人間をかく文学者は、単に文学者ではならん、要するに人間を識別する能力が発達した人でなくてはならんのです。進んだる世の中に、もっとも進んだる眼識を具《そな》えた男――特に文学者としてではない、一般人間としてこの方面に立派な腕前のある男――でなければ手は出せぬはずであります。世の中はそう思っておりません。何《なん》の小説家がと、小説家をもってあたかも指物師《さしものし》とか経師屋《きょうじや》のごとく単に筆を舐《ねぶ》って衣食する人のように考えている。小説家よりも大学の先生の方が遥《はるか》にえらいと考えている。内務省の地方局長の方がなお遥にえらいと思っている。大臣や金持や華族様はなおなお遥にえらいと思っている。妙な事であります。もし我々が小説家から、人間と云うものは、こんなものであると云う新事実を教えられたならば、我々は我々の分化作用の径路において、この小説家のために一歩の発展を促《うなが》されて、開化の進路にあたる一叢《ひとむら》の荊棘《いばら》を切り開いて貰ったと云わねばならんだろうと思います。(小説家の功力《くりき》はこの一点に限ると云う意味ではない。この一点を挙《あ》げて考えても局長さんや博士さんに劣るものでないと云うのであります)もし諸君がそんな小説家は現今日本に一人もないではないかと云われるならば、私はこう答える。それは小説家の罪ではない。現今日本の小説家(私もその一人と御認めになってよろしい)の罪である。局長にでも[#「でも」に傍点]があるごとく、博士にでも[#「でも」に傍点]があるごとく、小説家にでも[#「でも」に傍点]があるのも御互様と申さねばならぬのであります。――また泥溝《どぶ》の中へ落ちました。
 実はまだ文学の御話をするほどに講演の歩を進めておらんのであります。分化作用を述べる際につい口が滑《すべ》って文学者ことに小説家の眼識に論及してしまったのであります。だからこれをもって彼らの使命の全般をつくしたとは申されない。前にも云う通りついでだから分化作用に即《そく》して彼らの使命の一端を挙《あ》げたのに過ぎんのである。したがって文学全体に渉《わた》っての御話をするときには今少し概括的《がいかつてき》に出て来なければならぬ訳です。これから追々そこまで漕ぎつけて行きます。
 かく分化作用で、吾々は物と我とを分ち、物を分って自然と人間(物として観たる人間)と超感覚的な神(我を離れて神の存在を認める場合に云うのであります)とし、我を分って知、情、意の三とします。この我[#「我」に白丸傍点]なる三作用と我以外の物[#「物」に白丸傍点]とを結びつけると、明かに三の場合が成立します。すなわち物に向って知を働かす人と、物に向って情を働かす人と、それから物に向って意を働かす人であります。無論この三作用は元来独立しておらんのだから、ここで知を働かし、情を働かし、意を働かすと云うのは重[#「重」に白丸傍点]に働かすと云う意味で、全然他の作用を除却して、それのみを働かすと云うつもりではありません。そこでこのうちで知を働かす人は、物の関係を明《あきら》める人で俗にこれを哲学者もしくは科学者と云います。情を働かす人は、物の関係を味わう人で俗にこれを文学者もしくは芸術家と称《とな》えます。最後に意を働かす人は、物の関係を改造する人で俗にこれを軍人とか、政治家とか、豆腐屋《とうふや》とか、大工とか号しております。
 かように意識の内容が分化して来ると、内容の連続も多種多様になるから、前に申した理想、すなわちいかなる意識の連続をもって自己の生命を構成しようかと云う選択の区域も大分自由になります。ある人は比較的知の作用のみを働かす意識の連続を得て生存せんと冀《こいねが》い、ついに学者になります。またある人は比較的情を働かす意識の連続をもって生活の内容としたいと云う理想からとうとう文士とか、画家とか、音楽家になってしまいます。またある人は意志を多く働かし得る意識の連続を希望する結果百姓になったり、車引になったり――これはたんとないかも知れぬが、軍《いくさ》をしたり、冒険に出たり、革命を企てたりするのは大分あるでしょう。
 かく人間の理想を三大別したところで、我々、すなわち今日この席で講演の栄誉を有している私と、その講演を御聴き下さる諸君の理想は何であるかと云うと、云うまでもなく第二に属するものであります。情を働かして生活したい、知意を働かせたくないと云うのではないが、情を離れて活《い》きていたくないと云うのが我々の理想であります。しかしただ「情が理想」では合点《がてん》が行かない。御互になるほどと合点が参るためには、今少し詳細に「情を理想とする」とは、こんなものだと小《こま》かく割って御話しをしなければなるまいと思います。
 情を働かす人は物の関係を味わうんだと申しました。物の関係を味わう人は、物の関係を明《あきら》めなくてはならず、また場合によってはこの関係を改造しなくては味が出て来ないからして、情の人はかねて、知意の人でなくてはならず、文芸家は同時に哲学者で同時に実行的の人(創作家)であるのは無論であります。しかし関係を明める方を専《もっぱ》らにする人は、明めやすくするために、味わう事のできない程度までにこの関係を抽象してしまうかも知れません。林檎《りんご》が三つあると、三と云う関係を明かにさえすればよいと云うので、肝心《かんじん》の林檎は忘れて、ただ三の数《すう》だけに重きをおくようになります。文芸家にとっても関係を明かにする必要はあるが、これを明かにするのは従前よりよくこの関係を味わい得るために、明かにするのだからして、いくら明かになるからと云うて、この関係を味わい得ぬ程度までに明かにしては何にもならんのであります。だから三と云う関係を知るのは結構だが林檎《りんご》と云う果物を忘るる事はとうてい文芸家にはできんのであります。文芸家の意志を働かす場合もその通りであります。物の関係を改造するのが目的ではない、よりよく情を働かし得るために改造するのである。からして情の活動に反する程度までにこの関係を新《あらた》にしてしまうのは、文芸家の断じてやらぬ事であります。松の傍《かたわら》に石を添える事はあるでしょうが、松を切って湯屋に売払う事はよほど貧乏しないとできにくい。せっかくの松を一片の煙としてしまうともう、情を働かす余地がなくなるからであります。して見ると文芸家は「物の関係を味わうものだ」と云う句の意味がいささか明暸《めいりょう》になったようであります。すなわち物の関係を味わい得んがためには、その物がどこまでも具体的でなくてはならぬ、知意の働きで、具体的のものを打ち壊してしまうや否や、文芸家はこの関係を味わう事ができなくなる。したがってどこまでも具体的のものに即して、情を働かせる、具体の性質を破壊せぬ範囲内において知、意を働かせる。――まずこうなります。
 すると文芸家の理想はとうてい感覚的なものを離れては成立せんと云う事になります。(この事を詳《くわ》しく論ずるといろいろの疑問が起って来ますが、今は時間がありませんから述べません。まず大体の上においてこの命題は確然たる根拠《こんきょ》のあるものと御考えになっても差支《さしつかえ》はなかろうと思います)早い話しが無臭無形の神の事でもかこうとすると何か感覚的なものを借りて来ないと文章にも絵にもなりません。だから旧約全書の神様や希臘《ギリシャ》の神様はみんな声とか形とかあるいはその他の感覚的な力を有しています。それだから吾人文芸家の理想は感覚的なる或物を通じて一種の情をあらわすと云うても宜《よろ》しかろうと存じます。そこで問題は二つになります。一は感覚的なものとは何だと云う問題で二はいわゆる一種の情とは、感覚的なものの、どの部分によって、ど
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