んな具合にあらわされるかまた、「感覚的なものを通じて」と云うのは感覚的なものを使って、この道具の方便である情をあらわすと云うのか、しからずんば感覚的なもの、それ自身がこの情をあらわす目的物かという問題であります。この問題を解釈すると文芸家の理想の分化する模様が大体|見当《けんとう》がつきます。第一問の解釈、第二問の解釈として順を追うては述べませんが、ただ秩序を立てて分りやすくするためにやはり一二の番号をふって説明して行きます。
(一)私は最前《さいぜん》空間、時間の建立《こんりゅう》からして、物我の二世界を作ると申しました。その物[#「物」に白丸傍点]なるものは自然である、人間である、(単に物として見たる)神である(我以外[#「以外」に傍点]に存在するとすれば)と申しました。このうちで神は感覚的なものでないから問題になりません。もし文芸に神が出現するときは感覚的な或物を通じてくるのだから、出現するとしても、他と同じ分類のなかに這入《はい》るからしてやはり問題にする必要はありません。すると残るものは自然と人間であります。そうして我々は自然とこの人間とに対して一種の情を有しております。換言すれば感覚的なる自然と感覚的なる人間そのものの色合やら、線の配合やら、大小やら、比例やら、質の軟硬やら、光線の反射具合やら、彼らの有する音声やら、すべてこれらの感覚的なるものに対して趣味、すなわち好悪《こうお》、すなわち情、を有しております。だからこれらの感覚的な物の関係を味わう事ができます。のみならずそのうちでもっとも優れたる関係を意識したくなります。その意識したい理想を実現する一方法として詩ができます、画ができます。この理想に対する情のもっとも著しきものを称して美的情操と云います。(実は美的理想以外にもいろいろな理想が起る訳であります。あるいは一種の関係に突兀《とっこつ》と云う名を与え、あるいは他種の関係に飄逸《ひょういつ》と云う名を与えて、突兀的情操、飄逸的情操と云うのを作っても差支《さしつかえ》ない。分化作用が発達すれば自然とここへ来るにきまっています。西洋人の唱《とな》え出した美とか美学とか云うもののために我々は大に迷惑します)かようにして美的理想を自然物の関係で実現しようとするものは山水専門の画家になったり、天地の景物を咏《えい》ずる事を好む支那詩人もしくは日本の俳句家のようなものになります。それからまた、この美的理想を人物の関係において実現しようとすると、美人を咏ずる事の好きな詩人ができたり、これを写す事の御得意な画家になります。現今西洋でも日本でもやかましく騒いでいる裸体画などと云うものは全くこの局部の理想を生涯《しょうがい》の目的として苦心しているのであります。技術としてはむずかしいかも知れぬが文芸家の理想としては、ほんの一部分に過ぎんのであります。人によると裸体画さえかけば、画の能事は尽きたように吹聴《ふいちょう》している。私は画の方は心得がないから、何《なん》とも申しかねるが、あれは仏国の現代の風潮が東漸《とうぜん》した結果ではないでしょうか。とにかく、画でも詩でも文でも構わない。感覚物として見たる人間がすでに感覚物の一部分に過ぎん上に、美的情操と云うのがまた、この感覚物として見たる人間に対する情操の一部に過ぎんと判然した以上は、裸体美と云うものは尊いものかは知れぬが、狭いものには相違ないでしょう。
 美的にせよ、突兀的にせよ、飄逸的にせよ、皆吾人の物の関係を味う時の味い方で、そのいずれを選ぶかは文芸家の理想できまるべき問題でありますから、分化の結果理想が殖《ふ》えれば、どこまで割れて行くか分りません。しかしいくら割れても、ここに云う理想は、感覚物を感覚物として見た時にその関係から生ずるのであります。すなわちこの際における情操は、感覚物そのものを目的物として見た時に起るので、これを道具に使って、その媒介《ばいかい》によって、感覚物以外の或るものに対して起す情操と混同してはならんのであります。
(二)物我のうち物に対する理想と情操とは以上で大抵御分りになったろうと思います。すると今度は我[#「我」に白丸傍点]の番でありますから、こちらを少々説明します。
(い)我[#「我」に白丸傍点]の作用を知情意に区別することは前に述べた通りで、この知の働きを主にして物の関係を明かにするものは哲学者もしくは科学者だと申しました。なるほど関係を明かにすると云う点より見れば哲学科学の領分に相違ないが、関係を明かにするために一種の情が起るならば、情が起ると云う点において、知の働きであるにもかかわらず文芸的作用と云わねばならんかと思います。ところが知を働かして情の満足を得るためには前に説明した通り感覚的なものを離れて、単に物の関係のみを抽象してあらわしてはならんのであります。換言すると文芸的に知を働かせるため感覚的の具体を藉《か》りて来なければ成立しない、具体を藉りてその媒介を待てば知の働きといえどもこれを文芸化するを得べしと云う事になります。そうすると、ここに新しい文芸上の理想が出来上ります。すなわち物を道具に使って、知を働かし、その関係を明かにして情の満足を得ると云う理想であります。この理想を真《しん》に対する理想と云います。だからして真に対する理想は哲学者及び科学者の理想であると同時に文芸家の理想にもなります。ただし後者は具体を通じて[#「具体を通じて」に傍点]真をあらわすと云う条件に束縛されただけが、前者と異なるのであります。そうしてこの真のあらわし方、すなわち知を働かす具合も分化していろいろになりますが、おもに人間の精神作用が、(この場合には(一)におけるごとく人間を純感覚物と見做《みな》さないのである)あらかじめ吾人の予想した因果律《いんがりつ》と一致するか、またはこの因果律に一歩の分化を加えたる新意義に応じて発展する場合に多く用いられるのであります。たとえば父子《おやこ》が激論をしていると、急に火事が起って、家が煙につつまれる。その時今まで激論をしていた親子が、急に喧嘩《けんか》を忘れて、互に相援《あいたす》けて門外に逃げるところを小説にかく。すると書いた人は無論読む人もなるほどさもありそうだと思う。すなわちこの小説はある地位にある親子の関係を明かにしたと云う点において、作者及び読者の知を働かし得て、真に対する情の満足を得せしむるのであります。または反対に、大変|中《なか》のよかった夫婦が飢饉《ききん》のときに、平生の愛を忘れて、妻の食うべき粥《かゆ》を夫が奪って食うと云う事を小説にかく。するとこれもある位地境遇にある夫婦の関係を明かにすると云う点で同様の満足を作者と読者に与えるかも知れない。(人間の精神作用から云うと真はいろいろである。時には相反しても依然として双方共真である)好んでこう言う事をかく文芸家を真を理想にする文芸家と云います。
(ろ)吾人の有する第二の精神作用は情であります。この情を理想として働かせる人を文芸家と云う事は前に述べた通りでありますが、説いてここに至ると混雑を生じやすいからして、少々弁じた上進行します。単に情と云うと曖昧《あいまい》であります。なぜなれば我々が情の活動を得んがために、文芸上の作物を仕上げたり、またはこれを味う時に働かしむる情は、作物中に材料として使用する情とは区別する必要があるからであります。我々は感覚物を感覚物として見るときに一種の情を起します、この情はすなわち文芸家の理想の一であります。我々はまた感覚物を通じて知を働かせるときに一種の情を起します。この情もまた文芸家の理想の一であります。次に我々は同じく感覚物を通じて情を働かせるときにまた一種の情を得ねばならぬ訳であります。この両《ふたつ》の情はたとえその内容において彼此《ひし》相一致するとしても、これを同体同物としては議論の上において混雑を生ずる訳であります。例えばある感覚物を通じて怒《いかり》と云う情をあらわすとすれば、この作物より得る吾人の情もまた同性質の怒かも知れぬけれども(時には異性質の情を起す事あるはもちろんである)両者同物ではない。前の怒りは原因で後の怒りは結果である。わかりやすく言い直すと、前の怒りは感覚物に附着した怒である。(たといその源は我の有する作用中の怒りを我以外に放射して創設せるものにもせよ)後の怒は我と云う自己中に起る怒りである。だから混同を防ぐためにこの二つを区別しておいて歩を進めます。しかしその論法は大体において(い)の場合、すなわち吾人は知の働きを愛して、これに一種の情を付与すと云う条《くだ》りに説明したものと変りはありません。吾人の心裏《しんり》に往来する喜怒哀楽は、それ自身において、吾人の意識の大部分を構成するのみならず、その発現を客観的にして、これをいわゆる物(多くの場合においては人間であります)において認めた時にもまた大に吾人の情を刺激するものであります。けれどもこの刺激は前に述べた条件に基《もとづ》いて、ある具体、ことに人間を通じて情があらわるるときに始めて享受《きょうじゅ》する事ができるのであります。情において興味を有するからと云うて心理学者のように情だけを抽象して、これを死物として取扱えば文芸的にはなり兼ねるのであります。もっとも当体が情であるだけに、知意に比すると比較的抽象化しても物にならんとは限りませんが、これを詳《くわ》しく説明する余裕がないから略します。
 そこでこの種の理想に在《あ》っても分化の結果いろいろになりますが、まず標準を云うと、物を通して――物と云うより人と云う方が分りやすいから人としましょう。――人を通じて愛の関係をあらわすもの、これは十中八九いわゆる小説家の理想になっております。その愛の関係も分化するといろいろになります。相愛《あいあい》して夫婦になったり、恋の病に罹《かか》ったり――もっとも近頃の小説にはそんな古風なのは滅多《めった》にないようですが、それからもっと皮肉なのになると、嫁に行きながら他の男を慕って見たり、ようやく思が遂げていっしょになる明くる日から喧嘩《けんか》を始めたり、いろいろな理想――理想と云うのもおかしいようだ――とにかくいろいろできます。次には忠、孝、義侠心《ぎきょうしん》、友情、おもな徳義的情操はその分化した変形と共に皆標準になります。この徳義的情操を標準にしたものを総称して善の理想と呼ぶ事ができます。この事はもっと委細に御話したいが時間がないから略して次に移ります。
(は)精神作用の第三は意志であります。この意志が文芸的にあらわれ得るためには、やはり前述の条件に従って、感覚的な物を通じて具体化されなくてはなりません。そうすると、感覚的な物は道具であって、この道具のために意志の働きが判然とあらわれてくる。しかし道具はどこまでも道具で、意志があらわれるから道具も尊くなる。例《たと》えば徳利《とくり》のようなものであります。徳利自身に貴重な陶器がないとは限らぬが、底が抜けて酒を盛るに堪《た》えなかったならば、杯盤の間に周旋して主人の御意に入る事はできんのであります。今かりに大弾丸の空裏《くうり》を飛ぶ様を写すとする。するとこれを見る方《ほう》に二通りある。一は単に感覚的で、第一に述べたような場合に属する。一はこの感覚的なるものを通して非常に猛烈な勢《いきおい》――ただの勢では写す事もどうする事もできんから――をあらわす。すると弾丸は客で、実の目的は弾丸のあらわす猛勢である。自然ながら、器械的ながら一種の意志の作用である。冬富士山へ登るものを見ると人は馬鹿と云います。なるほど馬鹿には相違ないが、この馬鹿を通して一種の意志が発現されるとすれば、馬鹿全体に眼をつける必要はない、ただその意志のあらわれるところ、文芸的なるところだけを見てやればよいかも知れません。貴重な生命を賭《と》して海峡を泳いで見たり、沙漠《さばく》を横ぎって見たりする馬鹿は、みんな意志を働かす意識の連続を得んがために他を犠牲に供するのであります。したがってこれを文芸的
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