にあらわせばやはり文芸的にならんとは断言できません。いわんや国のためとか、道のためとか、人のためとか、(ろ)の場合に述べた徳義的理想と合するように意志が発現してくると非常な高尚な情操を引き起します。いわゆる懦夫《だふ》をして起たしむとはこの時の事であります。英語ではこれを heroism と名づけます。吾人の heroism に対して起す情緒は実際偉大なものに相違ありません。私は今日ここへ参りがけに砲兵工厰《ほうへいこうしょう》の高い煙突から黒煙がむやみにむくむく立ち騰《のぼ》るのを見て一種の感を得ました。考えると煤煙《ばいえん》などは俗なものであります。世の中に何が汚ないと云って石炭たきほどきたないものは滅多《めった》にない。そうして、あの黒いものはみんな金がとりたいとりたいと云って煙突が吐く呼吸だと思うとなおいやです。その上あの煙は肺病によくない。――しかし私はそんな事は忘れて一種の感を得た。その感じは取《とり》も直《なお》さず、意志の発現に対して起る感じの一部分であります。砲兵工厰の煙ですらこうだから真正の heroism に至っては実に壮烈な感じがあるだろうと思います。文芸家のうちではこの種の情緒を理想とするものは現代においてはほとんどないように思います。この理想にも分化があるのは無論です。楠公《なんこう》が湊川《みなとがわ》で、願くは七たび人間に生れて朝敵を亡《ほろ》ぼさんと云いながら刺しちがえて死んだのは一例であります。跛《びっこ》で結伽《けっか》のできなかった大燈国師が臨終に、今日こそ、わが言う通りになれと満足でない足をみしりと折って鮮血が法衣を染めるにも頓着《とんじゃく》なく座禅のまま往生したのも一例であります。分化はいろいろできます。しかしその標準を云うとまず荘厳に対する情操と云うてよろしかろうと思います。
 これで文芸家の理想の種類及びその説明はまず一と通り済みました。概括すると、一が感覚物そのものに対する情緒。(その代表は美的理想)二が感覚物を通じて知、情、意の三作用が働く場合でこれを分って、(い)知の働く場合(代表は真に対する理想)(ろ)情の働く場合(代表は愛に対する理想及び道義に対する理想)(は)意志の働く場合(代表は荘厳に対する理想)となります。この四大別の上に連想から来る情緒がいかにして混入するかを論じなければならんのですが、これも時間がないからやめます。
 文芸家の理想をようやくこの四種に分けました。この分類は私が文学論のなかに分けておいたものとは少々違いますが、これは出立地が違うのだから仕方がありません。もっともこの分け方の方が、明暸《めいりょう》で適切のように思われますから、双方違っていてもけっして諸君の御損にはなりません。さて前にも申す通り、知、情、意なる我々の精神的作用は区別のできるにもかかわらず、区別されたまま、他と関係なく発現するものでない、のみならず文芸にあっては皆感覚物を通じてその作用を現すのであるからして、この四種の理想に対する情操も、互に混合錯雑して、事実上はかように明暸に区劃《くかく》を受けて、作物中に出てくるものではありません。それにもかかわらず理想は四種あるので、四種以下にはならんのであります。しかも或る格段なる作物を取って検して見ると、四種のうちのいずれかがもっとも著しく眼につきます。したがってこの作はどの理想に属するものだと云う事はある程度まで云えます。そうしてこの四種の理想が、時代により、個人により、その勢力の消長遷移に影響を受けつつあるは疑うべからざる事実であります。ある時代には、美の要求を満足しなければ文芸上の作品でないとまで見做《みな》される事もありましょう。また次の時代には理想が推移して美はとにかく真は是非共あらわさなくては文芸の二字を冠らする資格がないと評します。またある人はどこかで道義心に満足を与えない作物は、作りたくない読みたくないと断言します。また他の人は意思の発現に伴う荘厳の情緒を得なければ、文芸上のあるものを味うた気がしないとまで主張するかも知れない。これらの時代もこれらの人々もことごとく正しいのであります。また四種のいずれでも構わないと云う人があれば、その人の趣味はもっとも広い人でまたもっとも正しい人と判断してもよかろうと思います。この四種のいずれがいかなる時勢に流行し、いずれがいかなる人にもっとも歓迎さるるかは大分興味ある問題でありますが、これも時間がないから抜きに致します。ただちょっと御断りをしておきたいのは、この四種は名前の示すごとく四種であって互にそれ相当の主張を有して、文芸の理想となっているものでありますから、甲をもって乙に隷属《れいぞく》すべき理由はどうしても発見できんのであります。この四つのうちに、重要の度からして差等の点数をつけて見ろと云われた時に、何人《なんびと》もこれをあえてする事はできないはずと思います。もしあるとすれば答案を調べずに点数をつける乱暴な教員と同じもので、言語道断の不心得であります。ただ吾は時勢の影響を受けているから、しかじかの理想に属するものを好むと云うならばそれでよろしい。吾は個性としてかくかくの理想の下に包含せらるべきものを択《えら》むと云うならば、それで勘弁してもよい。好悪《こうお》は理窟《りくつ》にはならんのだから、いやとか好きとか云うならそれまでであるが、根拠のない好悪を発表するのを恥じて、理窟もつかぬところに、いたずらな理窟をつけて、弁解するのは、消化がわるいから僕は蛸《たこ》が嫌《きらい》だというような口上で、もし好物であったなら、いかほど不消化でも、だまって、足は八本共に平げるほどな覚悟だろうと思います。
 この故にこれら四種の理想は、互に平等な権利を有して、相冒《あいおか》すべからざる標準であります。だから美の標準のみを固執《こしゅう》して真の理想を評隲《ひょうちょく》するのは疝気筋《せんきすじ》の飛車取り王手のようなものであります。朝起を標準として人の食慾を批判するようなものでしょう。御前は朝寝坊だ、朝寝坊だからむやみに食うのだと判断されては誰も心服するものはない。枡《ます》を持ち出して、反物の尺を取ってやるから、さあ持って来いと号令を下したって誰も号令に応ずるものはありません。寒暖計を眺めて、どうもあの山の高さはよほどあるよと云う連中は、寒暖計を験温器の代りにして逆上の程度でも計ったらよかろうと思う。もっともここに見当違《けんとうちが》いの批評と云うのは、美をあらわした作物を見て、ここには真がないと否定する意味ではない。真がないから駄目だ作物にならん[#「駄目だ作物にならん」に傍点]と云う批評を云うのである。真はないかも知れぬ、なければないでよい。無いものを有ると云うて貰いたいとは誰も云わないでしょう。しかし現にある美だけは見てやらなくっては、せっかく作った作物の生命がなくなる訳であります。頭は薬缶《やかん》だが鬚《ひげ》だけは白いと云えば公平であるが、薬缶じゃ御話しにならんよと、一言で退《しりぞ》けられたなら、鬚こそいい災難である。運慶の仁王は意志の発動をあらわしている。しかしその体格は解剖には叶《かな》っておらんだろうと思います。あれを評して真を欠いてるから駄目[#「駄目」に傍点]だと云うのは、云う方が駄目《だめ》です。ミレーの晩祈の図は一種の幽遠な情をあらわしている。そこに目がつけば、それでたくさんである。この画には意志の発動がないと云うのは、我慢して聞いてやっても好い。発動がないから画にならんと云うなら、発動の管《くだ》から文芸の世界を見る蛙《かえる》のようなものであります。
 しかしながら、一の理想をあらわすときに、他の理想を欠いている場合と、積極的に他の理想を打ち崩《くず》している場合とは少々違うのであります。欠いているのはただ含んでおらんと云うまでで、打ち壊すとなると明かにその理想に違背しているのですからして、この場合には作家の標準にした理想が、すべての他を忘却せしめ得るほどな手際《てぎわ》でうまく作物にあらわれておらねばならん。けれどもこれは天才でもはなはだむずかしい。したがって普通の場合には功罪が帳消しになって余す所は棒だけになります。いくら藤村の羊羹《ようかん》でもおまるの中に入れてあると、少し答えます。そのおまるたると否とを問わず、むしゃむしゃ食うものに至っては非常|稀有《けう》の羊羹好きでなければなりません。あれも学才があって教師には至極《しごく》だが、どうも放蕩《ほうとう》をしてと云う事になるととうてい及第はできかねます。品行が方正でないというだけなら、まだしもだが、大に駄々羅遊《だだらあそ》びをして、二尺に余る料理屋のつけ[#「つけ」に傍点]を懐中に呑《の》んで、蹣跚《まんさん》として登校されるようでは、教場内の令名に関わるのは無論であります。だからいかな長所があっても、この長所を傷ける短所があって、この短所を忘れ得せしむるだけに長所が卓然《たくぜん》としていない作物は、惜しいけれども文句がつきます。私はとくに惜しいけれども[#「惜しいけれども」に傍点]と云いたい。惜しいと云うのは、すでに長所を認めた上の批評であり、かつ短所をも知り抜いた上の判断で、一本調子に搦手《からめて》ばかり、五年も六年も突《つ》ついている陣笠連《じんがされん》とは歩調を一にしたくないからこう云うのであります。
 そこでいよいよ現代文芸の理想に移って、少々|気焔《きえん》を述べたいと思います。現代文芸の理想は何でありましょう。美? 美ではない。画の方、彫刻の方でもおそらく、単純な美ではないかも知れないが、それは不案内だから、諸君の御一考を煩《わずら》わすとして、文学について申すとけっして美ではない。美と云うものを唯一《ゆいいつ》の生命にしてかいたものは、短詩のほかにはないだろうと思います。小説には無論ありますまい。脚本は固《もと》よりです。詳《くわ》しく云うと、暇がかかるから、このくらいで御免蒙《ごめんこうむ》って先へ進みます。現代の理想が美でなければ、善であろうか、愛であろうか。この種の理想は無論幾多の作物中に経となり緯となりて織り込まれているには相違ないが、これが現代の理想だと云うには、遥《はるか》に微弱すぎると思います。それでは荘厳だろうか。荘厳が現代の理想ならばいささか頼母《たのも》しい気持もするが、実際はかえって反対である。現代の世ほど heroism に欠乏した世はなく、また現代の文学ほど heroism を発揚しない文学は少かろうと思います。現代の世に荘厳の感を起す悲劇は一つも出ないのでも分ります。現代文芸の理想が美にもあらず、善にもあらずまた荘厳にもあらざる以上は、その理想は真の一字にあるに相違ない。例を引けば長くなる、証を挙《あ》げれば大変である。仕方がないから、ただ真の一字が現代文芸ことに文学の理想であると云い放っておきます。しばらくこれを事実と御承認を願いたい。ところでこの真なるものも、いわゆる分化作用で、いろいろの種類と程度を有しているには相違ない、英仏独露の諸書を猟渉《りょうしょう》したらばその変形のおもなものを指摘する事はできる事になりましょう。私はそれに対してけっして不平を云うつもりではありません。前に云うごとく、真は四理想の一であって、その一たる真が勢を得て、他の三理想が比較的下火になるのも、時勢の推移上|銀杏返《いちょうがえ》しがすたれて束髪《そくはつ》が流行すると同じように、やむをえぬ次第と考えられます。しかしこれについて一言御参考のために申し上げておきたいのは、ほかでありませんが、こういう事なんです。
 人間の観察と云う者は深くなると狭くなるものです。世の中に何が狭いと云って専門家ほど狭いものはないのでも御分りになるでしょう。狭いと云う事は別段わるいと云う意味は含んでおりませんから、構わないと主張されるかも知れませんが、狭いと云うと不都合な事になります。医者があまり熱心になって狭い専門の範囲を、寝ても覚《さ》めても出る事ができな
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