ックも高襟も目に見える、手に触れると云うまでで自分でないにはきまっている。この手、この足、痒《かゆ》いときには掻《か》き、痛いときには撫《な》でるこの身体《からだ》が私かと云うと、そうも行かない。痒い痛いと申す感じはある。撫でる掻くと云う心持ちはある。しかしそれより以外に何にもない。あるものは手でもない足でもない。便宜《べんぎ》のために手と名づけ足と名づける意識現象と、痛い痒いと云う意識現象であります。要するに意識はある。また意識すると云う働きはある。これだけはたしかであります、これ以上は証明する事はできないが、これだけは証明する必要もないくらいに炳乎《へいこ》として争うべからざる事実であります。して見ると普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、ただ意識の連続して行くものに便宜上《べんぎじょう》私と云う名を与えたのであります。何が故《ゆえ》に平地に風波を起して、余計な私[#「私」に白丸傍点]と云うものを建立《こんりゅう》するのが便宜かと申すと、「私[#「私」に白丸傍点]」と、一たび建立するとその裏には、「あなた方」と、私以外のものも建立する訳になりますから
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