て真を欠いてるから駄目[#「駄目」に傍点]だと云うのは、云う方が駄目《だめ》です。ミレーの晩祈の図は一種の幽遠な情をあらわしている。そこに目がつけば、それでたくさんである。この画には意志の発動がないと云うのは、我慢して聞いてやっても好い。発動がないから画にならんと云うなら、発動の管《くだ》から文芸の世界を見る蛙《かえる》のようなものであります。
 しかしながら、一の理想をあらわすときに、他の理想を欠いている場合と、積極的に他の理想を打ち崩《くず》している場合とは少々違うのであります。欠いているのはただ含んでおらんと云うまでで、打ち壊すとなると明かにその理想に違背しているのですからして、この場合には作家の標準にした理想が、すべての他を忘却せしめ得るほどな手際《てぎわ》でうまく作物にあらわれておらねばならん。けれどもこれは天才でもはなはだむずかしい。したがって普通の場合には功罪が帳消しになって余す所は棒だけになります。いくら藤村の羊羹《ようかん》でもおまるの中に入れてあると、少し答えます。そのおまるたると否とを問わず、むしゃむしゃ食うものに至っては非常|稀有《けう》の羊羹好きでなければなり
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