や文芸批評家の考えるように、世間晴れて裸体画が大きな顔をされた義理ではありません。電車は危険だが、交通に便だから、一定の道路に限って、危険の念を抽出して、あるいてやろうと云う条件の下に、東鉄や電鉄が存在すると同じ事であります。裸体画も、東鉄も、電鉄も、あまり威張れば存在の権利を取上げてよいくらいのものであります。しかし一度《ひとた》び抽出の約束が成り立てば構わない。真もその通りであります。真を発揮した作物に対して、他の理想をことごとく忘れる、抽出すると云う条件さえ成立すればそれで宜《よろ》しい。――宜しいと云ったって大きな顔をして宜しいと云うのではない、存在しても宜しいと云うのであります。他の理想諸君へは御気の毒だが、僕も困るから、少し辛抱してくれたまえくらいの態度なら宜しいと云うのであります。しかしこの条件を成立せしむるためには真に対して起す情緒が強烈で、他の理想を忘れ得るほどに、うまく発揮されなくてはならん訳であります。今の作物にこれだけの仕事ができているかが疑問であります。
あまり議論が抽象的になりますから、実例について少々自分の考えを述べて見ましょう。ここに贋《にせ》の唖《おし》が一人あるとします。何か不審の件があって警察へ拘引《こういん》される。尋問に答えるのが不利益だと悟って、いよいよ唖の真似《まね》をする。警官もやむをえず、そのまま繋留《けいりゅう》しておくと、翌朝になって、唖は大変腹が減って来た。始めは唖だから黙って辛抱したが、とうとう堪《た》えられなくなって、飯を食わしてくれろと大きな声を出すと云う筋をかいたら、どんなものでしょう。面白い小説になる、ならんの手際《てぎわ》は、問題として、とにかくある境遇における、ある男について、一種の真をあらわす事はできる。面白味はそこにあるでしょう。しかしこれだけでは美な所も、善な所も、また荘厳な所も無論ない。すなわち真以外の理想は毫《ごう》も含んでおらんのです。そこが疵《きず》かと云うと私はそうは認めません。と云うものは他の理想を含んでおらんと云うまでで、毫もこれを害してはおりません。したがって真に対する面白味を感ずるのみで、他の理想はことごとく抽出して読み終る事が出来得るからであります。
次にこんな事を書いたら、どうなりましょう。一人の乞食《こじき》がいる。諸所放浪しているうちに、或日、或時、或村へ差しか
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