いが、一歩を超《こ》えて真のために美を傷つける、善をそこなう、荘厳を踏み潰《つぶ》すとなっては、真派の人はそれで万歳をあげる気かも知れぬが美党、善党、荘厳党は指を啣《くわ》えて、ごもっともと屏息《へいそく》している訳には行くまいと思います。目的が違うんだから仕方がないと云うのは、他に累《るい》を及ぼさない範囲内において云う事であります。他に累を及ぼさざるものが厳として存在していると云う事すら自覚しないで、真の世界だ、真の世界だと騒ぎ廻るのは、交通便利の世だ、交通便利の世だと、鈴をふり立てて、電車が自分勝手な道路を、むちゃくちゃに駆《か》けるようなものである。電車に乗らなければ動かないと云うほどな電車|贔屓《びいき》の人なら、それで満足かも知れぬが、あるいたり、ただの車へ乗ったり、自転車を用いたりするもののためには不都合この上もない事と存じます。
もっとも文芸と云うものは鑑賞の上においても、創作の上においても、多少の抽出法《ちゅうしゅつほう》を含むものであります。(抽出法については文学論中に愚見を述べてありますから御参考を願いたい)その極端に至ると妙な現象が生じます。たとえば、かの裸体画が公々然と青天白日の下に曝《さら》されるようなものであります。一般社会の風紀から云うと裸体と云うものは、見苦しい不体裁であります。西洋人が何と云おうと、そうに違ありません。私が保証します。しかしながら、人体の感覚美をあらわすためには、是非共裸体にしなければならん、この不体裁を冒《おか》さねばならん事となります。衝突はここに存するのです。この衝突は文明が進むに従って、ますます烈敷《はげしく》なるばかりでけっして調停のしようがないにきまっています。これを折り合わせるためには社会の習慣を変えるか、肉体の感覚美を棄《す》てるか、どっちかにしなければなりません、が両方共強情だから、収まりがつきにくいところを、無理に収まりをつけて、頓珍漢《とんちんかん》な一種の約束を作りました。その約束はこうであります。「肉体の感覚美に打たれているうちは、裸体の社会的不体裁を忘るべし」と云うのであります。最前《さいぜん》用いた難《むず》かしい言葉を使うと不体裁の感を抽出して、裸体画は見るべきものであると云う事に帰着します。この約束が成立してから裸体画はようやくその生命を繋《つな》ぐ事ができたのであって、ある画工
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