かると、しきりに腹が減る。幸《さいわい》ひっそりとした一構えに、人の気《け》はいもない様子を見届けて、麺麭《パン》と葡萄酒《ぶどうしゅ》を盗み出して、口腹の慾を充分|充《み》たした上、村外《むらはず》れへ出ると、眠くなって、うとうとしている所へ、村の女が通りかかる。腹が張って、酒の気《け》が廻って、当分の間ほかの慾がなくなった乞食は、女を見るや否や急に獣慾を遂行する。――この話しはモーパッサンの書いたものにあるそうですが、私は読んだ事がありません。私にこの話をして聞かした人はしきりに面白いと云っていました。なるほど面白いでしょう。しかしその面白いと云うのは、やはりある境遇にあるものが、ある境遇に移ると、それ相応な事をやると云う真相を、臆面なく書いた所にあるのでしょう。しかしこの面白味は、前の唖の話と違って、ただ真を発揮したばかりではない。他の理想を打ち壊しています。その打ち壊された理想を全然忘れない以上は、せっかくの面白味は打ち消されてしまうから役に立たんのみか、他の理想を主にする人からさんざんに悪口される場合が多いだろうと思います。こう云う場合に抽出の約束は成立しそうにもない。約束が成立しない以上は、この作物の生命はないと云うより、生命を許し得ないと云う方がよかろうと思います。一般の世の中が腐敗して道義の観念が薄くなればなるほどこの種の理想は低くなります。つまり一般の人間の徳義的感覚が鈍くなるから、作家批評家の理想も他の方面へ走って、こちらは御留守《おるす》になる。ついに善などはどうでも真さえあらわせばと云う気分になるんではありますまいか。日本の現代がそう云う社会なら致し方もないが、西洋の社会がかく腐敗して文芸の理想が真の一方に傾いたものとすれば、前後の考えもなく、すぐそれを担《かつ》いで、神戸や横浜から輸入するのはずいぶん気の早い話であります。外国からペストの種を輸入して喜ぶ国民は古来多くあるまいと考える。私がこう云うとあまり極端な言語を弄するようでありますが、実際外国人の書いたものを見ると、私等には抽出法がうまく行われないために不快を感ずる事がしばしばあるのだから仕方がありません。
 現代の作物《さくぶつ》ではないが沙翁《さおう》のオセロなどはその一例であります。事件の発展や、性格の描写は真を得ておりましょう、私も二三度講じた事があるから、その辺はよく心得てい
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