関して突然余の手元に届いた一封の書翰は、実にこの隠者が二十余年来の無音《ぶいん》を破る価ありと信じて、とくに余のために認《したた》めてくれたものと見える。

       下

 手紙には日常の談話と異《こと》ならない程度の平易な英語で、真率《まじめ》に余の学位辞退を喜こぶ旨《むね》が書いてあった。その内に、今回の事は君がモラル・バックボーンを有している証拠になるから目出《めで》たいという句が見えた。モラル・バックボーンという何でもない英語を翻訳すると、徳義的脊髄という新奇でかつ趣《おもむき》のある字面《じづら》が出来る。余の行為がこの有用な新熟語に価するかどうかは、先生の見識に任せて置くつもりである。(余自身はそれほど新らしい脊髄がなくても、不便宜なしに誰にでも出来る所作《しょさ》だと思うけれども)
 先生はまたグラッドストーンやカーライルやスペンサーの名を引用して、君の御仲間も大分あるといわれた。これには恐縮した。余が博士を辞する時に、これら前人《ぜんじん》の先例は、毫《ごう》も余が脳裏《のうり》に閃《ひら》めかなかったからである。――余が決断を促がす動機の一部分をも形づくらなかっ
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