なかつたのである。さうして不思議の沈黙に陥つたかと思ふと、彼は負けた仏蘭西《〔フランス〕》に課すべき条件の項目を其間に調べ出した。彼はアルサス、ローレンの歴史を研究した末、此二州は元々独乙のものであつたのだから、戦勝後は当然旧主の手に帰るべきものだといふ説を発表した。(つゞく)

       九 トライチケ(四)

 独乙《〔ドイツ〕》は勝つた。独乙帝国は成立した。彼が十年の間|夢《ゆめ》に迄見た希望は遂に達せられた。
「統一の星は上《のぼ》つた。其|途《みち》を妨ぐるものは災を蒙《〔こうむ〕》れ」
 是が彼の言葉であつた。此光輝ある時期に際会しながら、猶且《〔なおか〕》つ厭世哲学を説くハルトマンの如きは畢竟《〔ひっきょう〕》ずるに一種の精神病者に過ぎないと彼は断言した。其癖意志の肯定は国家として第一の義務であると主張する彼は、ハルトマンによつて復活されたる意志の哲学、即ち宇宙実在の中心点を意志の上に置く哲学によつて大いに動かされたのである。彼は実社界を至極|手荒《てあら》いものに考へた。仁義博愛は口《くち》に云ふべくして政治上に行ふべきものでないと信じた。斯《か》くして彼はあらゆる
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