八百三十四年ドレスデンに生れた彼は、父が軍籍に在つた関係から云つても、母が士官の娘であつた因縁から見ても、兵士たるべき運命を有《〔も〕》つて生れたと同じ事《こと》であつた。小供の時、疱瘡に罹つたのと、それに引き続いて耳の病気に冒されたので、幸か不幸か、彼は彼の既|定《てい》の行路を全然見捨てなければならなくなつた。
 然し十四|位《〔くらい〕》から彼の父に送る手紙の中には、もう政治上の意見などがちらほら散見し始めたさうである。さうして十六になるかならない内《うち》に、彼はいつの間《ま》にか熱烈なる独乙統一論者になつて仕舞つた。無論|普魯西《〔プロシア〕》を盟主としなければならないといふのが、彼の当初からの主張であつた。彼がライプチツヒに遊学した頃、教授の講義は碌《ろく》に聴きもせず、手当り次第に一人《ひとり》ぼつちの乱読を恣《〔ほしいま〕》まにした時《とき》ですら、書物から得る凡ての知識は、みな此普魯西中心の国家といふ大理想を構成する為《ため》に利用されたのである。
 彼はマキア※[#濁点付き片仮名ヱ、1-7-84]ルを読んだ。正義だらうが道徳だらうが、国家の為ならば、何時《いつ》犠牲に供しても差支《〔さしつかえ〕》ないものだといふ信念を抱くやうになつた。専政だらうが圧制だらうが、苟《〔いやしく〕》も国家の統一を維持し、又国家の威力を増進する以上は、いくら何《ど》う用ひても構はないものだといふ決論に到着した。さうして其意見を彼の父に書いて遣《〔や〕》つた。是は彼がゲツチンゲンで修業してゐる頃《ころ》で、年歯《とし》にすると二十二三の時の事《こと》である。(つゞく)

       八 トライチケ(三)

 東西南北どちらの方角を眺めても、彼の眼に映ずるものは悉《〔ことごと〕》く独乙《〔ドイツ〕》の敵であつた。彼は魯西亜《〔ロシア〕》を軽蔑した。年来独乙の統一に反対する墺地利《〔オーストリア〕》も、彼の憎悪を免《まぬ》かれなかつた。ミルトンとシエクスピヤを嘆美しながらも、それらの詩人を有する英吉利《〔イギリス〕》は、彼から見ると独乙の発展に妨害ある一種の邪魔|物《もの》に過ぎなかつた。彼は到底|一《ひと》戦争しなければ済《す》まないと考へた。さうして其戦争から真に強固にして健全な独乙が生れて来《く》るといふ事《こと》を信じて疑はなかつた。
 多数の聴講生を有する彼は、此目的をもつて大学で普国《〔ふこく〕》史を講じ出した。ごた/\した小邦はみんな取り潰《つぶ》してしまはなければならないといふ彼の本意は、此《この》一事でも窺《〔うかが〕》はれた。彼は自ら小邦に生れた事《こと》を忘れた。彼の父《ちゝ》に対する義理も忘れた。彼は父に向つて云つた。
「親子《おやこ》の情合のために自分の信念を枉《〔ま〕》げる事《こと》は、私には何《ど》うしても出来ません」
 彼は此言葉と共にライプチツヒを去つた。再び招かれて其所《そこ》で演説を試みた時《とき》、彼は独乙統一のために、焔のやうな熱烈の言辞を二万の聴衆の上に浴《あび》せ掛《か》けた。無邪気な彼等は呆然として驚ろいた。
 所へビスマークが現はれた。さうしてビスマークは彼の要する理想の人物であつた。ビスマークの時《とき》めく普魯西《〔プロシア〕》政府は猶《〔なお〕》の事《こと》統一の中心にならねばならなかつた。彼の所謂《〔いわゆる〕》「国家」とならねばならなかつた。「第一に自由、夫から統一」といふ叫び声を無意味なものとして聞き流した彼は、「第一に国家の権利、夫から国家」といふ旗幟《〔きし〕》を無遠慮に押し立てた。さうして其国家は即ち普魯西である。他の小邦は幾多の犠牲を甘んじても、此中央政府の意志と命令に従はなければならないといふのが彼の意見であつた。
「国家の実質とも見傚《〔みな〕》し得べき「力」を有《〔も〕》たない小邦が、何で国《こく》家を代表する事《こと》が出来よう」
 彼は斯《〔こ〕》ういつて、多くの小邦を睥睨《〔へいげい〕》した。其内には彼の故郷のサクソニーも無論|含《ふく》まれてゐた。
 千八百六十七年ビスマークの力によつて成就された北独乙の聯合は、此意味から見て、彼の理想をある程度迄現実にしたものに違なかつた。其結果として凡てに課せられたる義務兵役と、其義務兵役から生ずる驚ろくべき多くの軍隊とは、支配権を有する普魯西《〔プロシア〕》に取つて大いなる力であつた。それを独乙勢力の増進に必要な条件、即ち西方発展策に応用したのが即ち普仏《〔ふふつ〕》戦争なのである。
 彼の教授を受けた多くの学生は其時従軍した。彼等の一人が熱烈な告別の辞を述べた時、「どんな犠牲を払つても勝て」と云つた彼は、忽《〔たちま〕》ちヒーローとして青年から目されるやうになつた。彼は固《〔もと〕》より独乙の勝利を信じて疑は
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング