点頭録
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)何時の間《ま》に
《〔〕》:底本の編集部による、現代仮名遣いのルビ
(例)墻壁《〔しょうへき〕》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一|寸《すん》も
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)マキア※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ル
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しば/\ある
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
また正月が来た。振り返ると過去が丸で夢のやうに見える。何時の間《ま》に斯《か》う年齢《とし》を取つたものか不思議な位である。
此《この》感じをもう少し強めると、過去は夢としてさへ存在しなくなる。全くの無になつてしまふ。実際近頃の私《わたくし》は時々たゞの無として自分の過去を観《くわん》ずる事がしば/\ある。いつぞや上野へ展覧会を見に行つた時、公園の森の下を歩きながら、自分は或《ある》目的をもつて先刻《さつき》から足を運ばせてゐるにも拘《かゝ》はらず、未《いま》だ曾《かつ》て一|寸《すん》も動いてゐないのだと考へたりした。是《これ》は耄碌《もうろく》の結果ではない。宅《うち》を出て、電車に乗つて、山下で降りて、それから靴で大地の上をしかと踏んだといふ記憶を慥《たし》かに有《も》つた上の感じなのである。自分は其時《そのとき》終日|行《ゆ》いて未《いま》だ曾《かつ》て行《ゆ》かずといふ句が何処《どこ》かにあるやうな気がした。さうして其《その》句の意味は斯《か》ういふ心持を表現したものではなからうかとさへ思つた。
これをもつと六《む》づかしい哲学的な言葉で云《い》ふと、畢竟《ひつきやう》ずるに過去は一の仮象《かしやう》に過ぎないといふ事にもなる。金剛経にある過去|心《しん》は不可得《ふかとく》なりといふ意義にも通ずるかも知れない。さうして当来《たうらい》の念々《ねん/\》は悉《こと/″\》く刹那《せつな》の現在からすぐ過去に流れ込むものであるから、又瞬刻の現在から何等の段落なしに未来を生み出すものであるから、過去に就《つい》て云ひ得《う》べき事は現在に就ても言ひ得《う》べき道理であり、また未来に就《つ》いても下し得《う》べき理窟であるとすると、一生は終《つひ》に夢よりも不確実なものになつてしまはなければならない。
斯《か》ういふ見地から我《われ》といふものを解釈したら、いくら正月が来ても、自分は決して年齢《とし》を取る筈《はず》がないのである。年齢《とし》を取るやうに見えるのは、全く暦と鏡の仕業《しわざ》で、其《その》暦も鏡も実は無に等しいのである。
驚くべき事は、これと同時に、現在の我が天地を蔽《おほ》ひ尽して儼存《げんそん》してゐるといふ確実な事実である。一挙手一投足の末に至る迄《まで》此《この》「我《われ》」が認識しつゝ絶えず過去へ繰越《くりこ》してゐるといふ動かしがたい真境《しんきやう》である。だから其処《そこ》に眼を付けて自分の後《うしろ》を振り返ると、過去は夢|所《どころ》ではない。炳乎《へいこ》として明らかに刻下《こくか》の我を照《てら》しつゝある探照燈のやうなものである。従つて正月が来るたびに、自分は矢張り世間|並《なみ》に年齢《とし》を取つて老い朽ちて行かなければならなくなる。
生活に対する此《この》二つの見方が、同時にしかも矛盾なしに両存して、普通にいふ所の論理を超越してゐる異様な現象に就《つ》いて、自分は今何も説明する積《つもり》はない。又解剖する手腕も有《も》たない。たゞ年頭に際して、自分は此《この》一体二様の見解を抱いて、わが全生活を、大正五年の潮流に任《まか》せる覚悟をした迄である。
若《も》し無に即して云《い》へば、自分は今度の春を迎へる必要も何もない。否《いな》明治の始めから生れないのと同じやうなものである。然《しか》し有《う》になづんで云へば、多病な身体《からだ》が又一年|生《い》き延びるにつれて、自分の為《な》すべき事はそれ丈《だけ》量に於《おい》て増すのみならず、質に於《おい》ても幾分《いくぶん》か改良されないとも限らない。従つて天が自分に又一年の寿命を借《か》して呉《く》れた事は、平常から時間の欠乏を感じてゐる自分に取つては、何《ど》の位の幸福になるか分らない。自分は出来る丈《だけ》余命のあらん限りを最善に利用したいと心掛けてゐる。
趙州《でうしう》和尚といふ有名な唐の坊さんは、趙州古仏晩年|発心《ほつしん》と人に云《い》はれた丈《だけ》あつて、六十一になつてから初めて道に志《こゝろざ》した奇特《きどく》な心懸の
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