人である。七歳の童児なりとも、我に勝《まさ》るものには我れ即《すなは》ち彼に問はん、百歳の老翁《らうをう》なりとも我に及ばざる者には我れ即ち侘《た》を教へんと云つて、南泉《なんせん》といふ禅坊さんの所へ行つて二十年間|倦《う》まずに修業を継続したのだから、卒業した時にはもう八十になつてしまつたのである。夫《それ》から趙州の観音院に移つて、始めて人を得度《とくど》し出した。さうして百二十の高齢に至る迄|化導《けだう》を専《もつぱ》らにした。
 寿命は自分の極めるものでないから、固《もと》より予測は出来ない。自分は多病だけれども、趙州の初発心《しよほつしん》の時よりもまだ十年も若い。たとひ百二十|迄《まで》生きないにしても、力の続く間、努力すればまだ少しは何か出来る様に思ふ。それで私は天寿の許す限り趙州の顰《ひそみ》にならつて奮励する心組《こゝろくみ》でゐる。古仏と云《い》はれた人の真似《まね》も長命も、無論自分の分《ぶん》でないかも知れないけれども、羸弱《るゐじやく》なら羸弱《るゐじやく》なりに、現にわが眼前に開展する月日に対して、あらゆる意味に於《おい》ての感謝の意を致して、自己の天分の有《あ》り丈《たけ》を尽さうと思ふのである。
 自分は点頭録《てんとうろく》の最初に是丈《これだけ》の事を云つて置かないと気が済まなくなつた。

       二 軍国主義(一)

 今度の欧洲《おうしう》戦争が爆発した当時、自分は或人《あるひと》から突然質問を掛けられた。
「何《ど》んな影響が出て来るでせう」
「左様《さやう》」
 自分は実際考へる暇《ひま》を有《も》たなかつた。けれども答へなければならなかつた。
「何《ど》んな影響が出て来るか、来て見なければ無論解りませんけれども、何しろ吾々が是《これ》はと驚ろくやうな目覚《めざ》ましい結果は予期しにくいやうに思ひます。元来|事《こと》の起りが宗教にも道義にも乃至《ないし》一般人類に共通な深い根柢を有した思想なり感情なり欲求なりに動かされたものでない以上、何方《どつち》が勝つた所で、善が栄えるといふ訳《わけ》でもなし、又|何方《どつち》が負けたにした所で、真《しん》が勢《いきほひ》を失ふといふ事にもならず、美が輝《かゞやき》を減ずるといふ羽目《はめ》にも陥る危険はないぢやありませんか」
 自分はさう云《い》ひ切つて仕舞《しま》つた。さうして戦争の展開する場面が非常に広い割に、又それに要する破壊的動力が凄《すさま》じい位《くらゐ》猛烈な割に、案外落付いてゐられるのは、全く此《この》見解が知らず/\胸の裡《うち》にあるからだらうと、私《ひそ》かに自分で自分を判断した。
 実際|此《この》戦争から人間の信仰に革命を引き起すやうな結果は出て来やうとも思はれない。又従来の倫理観を一変するやうな段落が生じやうとも考へられない。これが為《ため》に美醜《びしう》の標準に狂《くる》ひが出やうとは猶更《なほさら》懸念できない。何《ど》の方面から見ても、吾々の精神生活が急劇な変化を受けて、所謂《いはゆる》文明なるものゝ本流に、強い角度の方向転換が行はれる虞《おそれ》はないのである。
 戦争と名のつくものゝ多くは古来から大抵|斯《こ》んなものかも知れないが、ことに今度の戦争は、其《その》仕懸《しかけ》の空前に大袈裟《おほげさ》な丈《だけ》に、やゝともすると深みの足りない裏面を対照として却《かへつ》て思ひ出させる丈《だけ》である。自分は常にあの弾丸とあの硝薬《せうやく》とあの毒|瓦斯《ガス》とそれからあの肉団《にくだん》と鮮血とが、我々人類の未来の運命に、何《ど》の位の貢献をしてゐるのだらうかと考へる。さうして或《あ》る時は気の毒になる。或る時は悲しくなる。又或る時は馬鹿々々しくなる。最後に折々《をり/\》は滑稽さへ感ずる場合もあるといふ残酷な事実を自白せざるを得ない。左様《さう》した立場から眺めると、如何《いか》に凄《すさま》じい光景でも、如何に腥《なま》ぐさい舞台でも、それに相応した内面的背景を具《そな》へて居ないといふ点に於《おい》て、又それに比例した強硬な脊髄を有して居ないといふ意味に於て、浅薄な活動写真だの軽浮《けいふ》なセンセーシヨナル小説だのと択《えら》ぶ所がないやうな気になる。たとひ殺傷に参加する人々個々の頭上には、千差万別の悲劇が錯綜紛糾《さくそうふんきう》して、時々刻々に彼等の運命を変化しつゝあらうとも、それは当座限りの影響に過《すぎ》ない。永久に吾人《ごじん》一般の内面生活を変色させるやうな強い結果は何処《どこ》からも生れて来ない。とすると、今度の戦争は有史以来特筆大書すべき深刻な事実であると共に、まことに根の張らない見掛倒しの空々《そら/″\》しい事実なのである。(つゞく)

       三
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