ヂアリズムは観念の科学であつて、其観念なるものが又大いに感情的分子を含《ふく》んでゐる。文字の示現通り単なる冥想や思索でなくつて、場合が許すならば、何時《いつ》でも実行的に変化するのみならず、時としては侵略的にさへなりかねない程《〔ほど〕》毒々しいものである。アイヂアリズムが論議の援助を受けて、主観客観の一致を発見したが最後、こゝに外界と内界の墻壁《〔しょうへき〕》を破壊して、凡てを吸収し尽さなければ已《〔や〕》まない事《こと》になる。アイヂアリズムから思ひも寄らない物質主義が現はれてくる。是は最初から無関心で出立しない哲学として、陥るべき当然の結果である。
此批評家の云ふ事《こと》が、果して真相の解釈であるか何《ど》うか、是も自分には分らない。唯遠くにゐて、其土地の空気を呼吸しない所為《せゐ》か、斯《か》ういふ説明は自分から見て何《〔ど〕》うも切実でないやうな気がする。奇抜な事《こと》は突飛《〔とっぴ〕》な位奇抜とは思ふが、それがため却つて成程と首肯しがたくなる位なものである。
例を挙げればまだ沢山あるが、さう一々も覚えてゐないから、まづ此位にして置いて、自分は一寸|斯《か》ういふ現象に就いてこゝに挿話的ながら考へて見たいと思ふ事《こと》がある。
英仏の評論家は現在の戦争を単に当面の事実としてばかり眺めてゐないのみならず、又それを政治上の問題としてばかり考へてゐないのみならず、其背後に必ず或《ある》思想家なり学者なりの言説を大いなる因子《いんし》として数へたがつてゐる傾向に見える。実際欧洲の思想家や学者はそれ程実社会を動かしてゐるのだらうか。
自分は日露戦争が、我日本の生んだ大哲学者の影響を蒙《〔こうむ〕》つて発現したとは決して思はない。日清戦争も其通りである。戦争はとにかく、其他の小事件にせよ、我日本に起つた歴史的事実の背景に、思想家の思想を基点として据ゑ得るものは殆んどないやうに思ふ。現代の日本に在つて政治は飽《〔あ〕》く迄も政治である。思想は又|何所《〔どこ〕》迄も思想である。二つのものは同じ社会にあつて、てんでんばら/\に孤立してゐる。さうして相互の間に何等の理解も交渉もない。たまに両者の連鎖を見出すかと思ふと、それは発売禁止の形式に於て起る抑圧的なものばかりである。山陽の日本外史が維新の大業に醗酵分となつて交り込んだのは、例外中の例外で、しかもそれは明治大正以前の事実に過ぎない。日本の思想家が貧弱なのだらうか。日本の政治家の眼界が狭いのだらうか。又は西洋の批評家の解釈に誇張が多過ぎるのだらうか。自分は三つとも否定する訳に行くまいと思ふ。さうして其内で西洋の批評家の誇張が一番少ないと思ふ。(つゞく)
七 トライチケ(二)
もしトライチケの名がニーチエやヘーゲルと同じ意味に於て此戦争の引合《ひきあひ》に出るならば、自分は少なくとも是丈《〔これだけ〕》の事《こと》を頭《あたま》のうちに入れて置く方が便利だと考へる。さうすれば大した困難と誤解なしに、現下|独乙《〔ドイツ〕》に於る彼の地位が、比較的明瞭に想像され得るからである。
ニーチエやヘーゲルは此事件後に復活した名前ではない。只在来の名前に英仏人が新《あた》らしい意義を付けた丈である。疾《と》うから知れてゐる彼等の内容を、一種の刺戟に充ちた異様の眼《め》で、特別に眺めた丈である。トライチケも復活した名でないかも知れない。けれども前者と違つて、此際《〔このさい〕》新らしい解釈を受ける必要のない名である。今迄のトライチケを今迄通りに見てゐれば、視線の角度を改める必要も手数も要らないで、すぐ彼と今度の戦争との関係が解るのである。彼の説はニーチエ程高踏的でなかつた。孤峰頂上から下界へ向つて命令するが如き態度で、詩のやうな哲学、又哲学のやうな詩を絶叫しはしなかつた。無論ヘーゲル程神秘の雲《くも》のうちに隠れて弁証の稲妻を双手に弄する人ではなかつた。彼は最初から確実に地上を歩《ある》いてゐた。のみならず彼の眼界は狭い独乙《〔ドイツ〕》によつて東西南北共に仕切られてゐた。従つて今更新らしく彼を翻訳する必要もなければ又しやうとした所で其余地もないのである。たゞ当時の彼を当時の儘引き延ばして、今の戦争に連続させさへすれば、それで両者の関係は可なり判然するのである。自分はわざと両者の関係と云つた。実は彼が今次の大戦争に及ぼした影響と云ひたいのであるが、それはニーチエやヘーゲルの場合と同じく、影響の程度からいつて、自分には能《〔よ〕》く解《わか》らないから、仕方なしにさういふ言葉|遣《づか》ひを遠慮した。しかも其上に前述べた通り、彼《〔ひ〕》我《が》国情の差違《さゐ》並《なら》びに批評家の誇張などを念頭に置いて、是からトライチケを一瞥しやうとするのである。
千
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