「まだ何か注文があるのかい」
「うん」
「何だい」
「君の経歴を聞かせるか」
「僕の経歴って、君が知ってる通りさ」
「僕が知ってる前のさ。君が豆腐屋の小僧であった時分から……」
「小僧じゃないぜ、これでも豆腐屋の伜《せがれ》なんだ」
「その伜の時、寒磬寺《かんけいじ》の鉦《かね》の音を聞いて、急に金持がにくらしくなった、因縁話《いんねんばな》しをさ」
「ハハハハそんなに聞きたければ話すよ。その代り剛健党にならなくちゃいけないぜ。君なんざあ、金持の悪党を相手にした事がないから、そんなに呑気《のんき》なんだ。君はディッキンスの両都物語《りょうとものがた》りと云う本を読んだ事があるか」
「ないよ。伊賀の水月は読んだが、ディッキンスは読まない」
「それだからなお貧民に同情が薄いんだ。――あの本のねしまいの方に、御医者さんの獄中でかいた日記があるがね。悲惨なものだよ」
「へえ、どんなものだい」
「そりゃ君、仏国《ふっこく》の革命の起る前に、貴族が暴威を振《ふる》って細民を苦しめた事がかいてあるんだが。――それも今夜僕が寝《ね》ながら話してやろう」
「うん」
「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現
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