大丈夫か」
「何だあ」と向うの首から声が出る。
「大丈夫かよう」
 やがて圭さんの首が見えなくなった。
「おうい」
 鼻の先から出る黒煙りは鼠色《ねずみいろ》の円柱《まるばしら》の各部が絶間《たえま》なく蠕動《ぜんどう》を起しつつあるごとく、むくむくと捲《ま》き上がって、半空《はんくう》から大気の裡《うち》に溶《と》け込んで碌さんの頭の上へ容赦なく雨と共に落ちてくる。碌さんは悄然《しょうぜん》として、首の消えた方角を見つめている。
 しばらくすると、まるで見当の違った半丁ほど先に、圭さんの首が忽然《こつぜん》と現われた。
「帽子はないぞう」
「帽子はいらないよう。早く帰ってこうい」
 圭さんは坊主頭を振り立てながら、薄《すすき》の中を泳いでくる。
「おい、どこへ飛ばしたんだい」
「どこだか、相談が纏《まとま》らないうちに飛ばしちまったんだ。帽子はいいが、歩行《ある》くのは厭《いや》になったよ」
「もういやになったのか。まだあるかないじゃないか」
「あの煙と、この雨を見ると、何だか物凄《ものすご》くって、あるく元気がなくなるね」
「今から駄々《だだ》を捏《こ》ねちゃ仕方がない。――壮快じ
前へ 次へ
全71ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング