だから、右へ吹きつけるんだ」
「樹《き》が多いから、方角が分らない。もう少し登ったら見当がつくだろう」
 しばらくは雑木林《ぞうきばやし》の間を行く。道幅は三尺に足らぬ。いくら仲が善《よ》くても並んで歩行《ある》く訳には行かぬ。圭さんは大きな足を悠々《ゆうゆう》と振って先へ行く。碌さんは小さな体躯《からだ》をすぼめて、小股《こまた》に後《あと》から尾《つ》いて行く。尾いて行きながら、圭さんの足跡の大きいのに感心している。感心しながら歩行いて行くと、だんだんおくれてしまう。
 路は左右に曲折して爪先上《つまさきあが》りだから、三十分と立たぬうちに、圭さんの影を見失った。樹と樹の間をすかして見ても何にも見えぬ。山を下りる人は一人もない。上《あが》るものにも全く出合わない。ただ所々に馬の足跡がある。たまに草鞋の切れが茨《いばら》にかかっている。そのほかに人の気色《けしき》はさらにない、饂飩腹《うどんばら》の碌さんは少々心細くなった。
 きのうの澄み切った空に引き易《か》えて、今朝宿を立つ時からの霧模様《きりもよう》には少し掛念《けねん》もあったが、晴れさえすればと、好い加減な事を頼みにして、
前へ 次へ
全71ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング