ようだね。仁王の行水《ぎょうずい》だ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」
圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい擦《こす》る。擦っては時々、手拭を温泉《ゆ》に漬《つ》けて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗《あせ》と膏《あぶら》と垢《あか》と温泉《ゆ》の交《まじ》ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。
「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは湯槽《ゆぶね》を飛び出した。飛び出しはしたものの、感心の極《きょく》、流しへ突っ立ったまま、茫然《ぼうぜん》として、仁王の行水を眺めている。
「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんが槽《ふね》のなかから質問する。
「隣りの客どころじゃない。その顔は不思議だよ」
「もう済んだ。ああ好い心持だ」と圭さん、手拭の一端《いったん》を放すや否や、ざぶんと温泉《ゆ》の中へ、石のように大きな背中を落す。満槽《まんそう》の湯は一度に面喰《めんくら》って、槽の底から大恐惶《だいきょうこう》を持ち上げる。ざあっざあっと音がして、流しへ溢《あふ》れだす。
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