だ虱《しらみ》が湧《わ》いたには困った。――君、虱が湧いた事があるかい」
「僕はないよ。身分が違わあ」
「まあ経験して見たまえ。そりゃ容易に猟《か》り尽せるもんじゃないぜ」
「煮え湯で洗濯《せんたく》したらよかろう」
「煮え湯? 煮え湯ならいいかも知れない。しかし洗濯するにしてもただでは出来ないからな」
「なあるほど、銭《ぜに》が一|文《もん》もないんだね」
「一文もないのさ」
「君どうした」
「仕方がないから、襯衣《シャツ》を敷居の上へ乗せて、手頃な丸い石を拾って来て、こつこつ叩《たた》いた。そうしたら虱《しらみ》が死なないうちに、襯衣が破れてしまった」
「おやおや」
「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」
「さぞ困ったろうね」
「なあに困らんさ、そんな事で困っちゃ、今日まで生きていられるものか。これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。滅多《めった》に困っちゃ仕方がない」
「すると僕なんぞも、今に、とおふい、油揚《あぶらげ》、がんもどきと怒鳴《どな》って、あるかなくっちゃならないかね」
「華族でもない癖に」
「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」
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