三の調子は半ば弁解的であった。半ば自嘲的《じちょうてき》であった。過去の牢獄生活の上に現在の自分を築き上げた彼は、その現在の自分の上に、是非とも未来の自分を築き上げなければならなかった。それが彼の方針であった。そうして彼から見ると正しい方針に違なかった。けれどもその方針によって前《さき》へ進んで行くのが、この時の彼には徒《いたず》らに老ゆるという結果より外に何物をも持ち来《きた》さないように見えた。
「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰らないね」
「そんな事はありません」
 彼の意味はついに青年に通じなかった。彼は今の自分が、結婚当時の自分と、どんなに変って、細君の眼に映るだろうかを考えながら歩いた。その細君はまた子供を生むたびに老けて行った。髪の毛なども気の引けるほど抜ける事があった。そうして今は既に三番目の子を胎内に宿していた。

     三十

 家《うち》へ帰ると細君は奥の六畳に手枕《てまくら》をしたなり寐《ね》ていた。健三はその傍《そば》に散らばっている赤い片端《きれはし》だの物指《ものさし》だの針箱だのを見て、またかという顔をした。
 細君はよく寐る女であった。朝もこ
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