人となった彼は、その後自然の力でこの世界から独り脱け出してしまった。そうして脱け出したまま永く東京の地を踏まなかった。彼は今再びその中へ後戻りをして、久しぶりに過去の臭《におい》を嗅《か》いだ。それは彼に取って、三分の一の懐かしさと、三分の二の厭《いや》らしさとを齎《もたら》す混合物であった。
彼はまたその世界とはまるで関係のない方角を眺めた。すると其所《そこ》には時々彼の前を横切る若い血と輝いた眼を有《も》った青年がいた。彼はその人々の笑いに耳を傾むけた。未来の希望を打ち出す鐘のように朗かなその響が、健三の暗い心を躍《おど》らした。
或日彼はその青年の一人に誘われて、池《いけ》の端《はた》を散歩した帰りに、広小路《ひろこうじ》から切通《きりどお》しへ抜ける道を曲った。彼らが新らしく建てられた見番《けんばん》の前へ来た時、健三はふと思い出したように青年の顔を見た。
彼の頭の中には自分とまるで縁故のない或女の事が閃《ひらめ》いた。その女は昔し芸者をしていた頃人を殺した罪で、二十年|余《あまり》も牢屋《ろうや》の中で暗い月日を送った後《あと》、漸《やっ》と世の中へ顔を出す事が出来るよ
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