んちらでんき[#「ちんちらでんき」に傍点]皿|持《も》てこ汁飲ましょって鳴く鳥がいるのを御存じですか」などと訊《き》いた。
 先刻《さっき》から落付《おちつ》いていた姉が、また劇《はげ》しく咳《せ》き出した時、彼は漸《ようや》く口を閉じた。そうしてさもくさくさしたといわぬばかりに、左右の手の平を揃《そろ》えて、黒い顔をごしごし擦《こす》った。
 兄と健三はちょっと茶の間の様子を覗《のぞ》きに立った。二人とも発作の静まるまで姉の枕元に坐《すわ》っていた後で、別々に比田の家を出た。

     二十九

 健三は自分の背後にこんな世界の控えている事を遂に忘れることが出来なくなった。この世界は平生《へいぜい》の彼にとって遠い過去のものであった。しかしいざという場合には、突然現在に変化しなければならない性質を帯びていた。
 彼の頭には願仁坊主《がんにんぼうず》に似た比田の毬栗頭《いがぐりあたま》が浮いたり沈んだりした。猫のように顋《あご》の詰った姉の息苦しく喘《あえ》いでいる姿が薄暗く見えた。血の気の竭《つ》きかけた兄に特有なひすばった長い顔も出たり引込《ひっこ》んだりした。
 昔しこの世界に
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