。ただ焦燥《あせり》に焦燥ってばかりいる今の自分が、恨めしくもありまた気の毒でもあった。
兄が約束の時間までに顔を出さないので、比田はその間を繋《つな》ぐためか、しきりに書物の話をつづけようとした。書物の事なら何時《いつ》まで話していても、健三にとって迷惑にならないという自信でも持っているように見えた。不幸にして彼の知識は、『常山紀談』を普通の講談ものとして考える程度であった。それでも彼は昔し出た『風俗画報』を一冊残らず綴《と》じて持っていた。
本の話が尽きた時、彼は仕方なしに問題を変えた。
「もう来そうなもんですね、長《ちょう》さんも。あれほどいってあるんだから忘れるはずはないんだが。それに今日は明けの日だから、遅くとも十一時頃までには帰らなきゃならないんだから。何ならちょっと迎《むかい》に遣《や》りましょうか」
この時また変化が来たと見えて、火の着くように咳き入る姉の声が茶の間の方で聞こえた。
二十六
やがて門口《かどぐち》の格子《こうし》を開けて、沓脱《くつぬぎ》へ下駄《げた》を脱ぐ音がした。
「やっと来たようですぜ」と比田《ひだ》がいった。
しかし玄関を
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