通り抜けたその足音はすぐ茶の間へ這入《はい》った。
「また悪いの。驚ろいた。ちっとも知らなかった。何時《いつ》から」
 短かい言葉が感投詞のようにまた質問のように、座敷に坐《すわ》っている二人の耳に響いた。その声は比田の推察通りやっぱり健三の兄であった。
「長さん、先刻《さっき》から待ってるんだ」
 性急な比田はすぐ座敷から声を掛けた。女房の喘息《ぜんそく》などはどうなっても構わないといった風のその調子が、如何《いか》にもこの男の特性をよく現わしていた。「本当に手前勝手な人だ」とみんなからいわれるだけあって、彼はこの場合にも、自分の都合より外に何にも考えていないように見えた。
「今行きますよ」
 長太郎《ちょうたろう》も少し癪《しゃく》だと見えて、なかなか茶の間から出て来なかった。
「重湯《おもゆ》でも少し飲んだら好《い》いでしょう。厭《いや》? でもそう何にも食べなくっちゃ身体《からだ》が疲れるだけだから」
 姉が息苦しくって、受答えが出来かねるので、脊中《せなか》を撫《さす》っていた女が一口ごとに適宜な挨拶《あいさつ》をした。平生《へいぜい》健三よりは親しくその宅《うち》へ出入《で
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